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2013年3月27日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
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 加藤清正の熊本城   Kumamoto Catsle   First appearance on the Web: November 15, 2012


豊臣秀吉の親類の子で、その台所飯を食べて育ち、54 万石の主までになった清正は、江戸城、名古屋城など手伝い普請を多く手がけて藤堂高虎とともに築城の名手だった。とりわけ自らの熊本城の規模と石垣の美しさに誰しもが驚嘆する。

城の着工は関ケ原の前後で、慶長12年(1607)の完成といい、その時期は隣国、黒田長政の福岡城と重なる。当時、豊臣家と徳川家の関係は微妙な時期だ。清正の秀頼への気持ちを考えると、家康に近い長政は強く警戒しただろう。

慶長16年(1611)清正の仲介で京都二条城での秀頼と家康の対面が実現するが、その直後帰国の船中で発病し、帰国後、享年50歳で世を去る。すると幕府は家光の時、加藤家を2代で改易してしまう。のち幕末まで細川家が11代続き、城の修復を重ねて、後年「西南の役」で薩軍が城を攻めるが落ちなかった。ために西郷隆盛が「鎮台に負けたのではない。清正の城に負けたのだ」と言ったという逸話がある。それほどの城であった。

また城下の基礎も清正が作ったので、熊本の人々の清正を慕う心は半端でない。「清正公様」と今も敬っている。本丸など主要部分が国特別史跡。

カメラはニコンD90, D700。レンズはDX18-35mm, FX24-120mm, 80-200mm。(2009年7月に撮影)

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01 宇土櫓 熊本城を代表する建物で国指定重要文化財。関ケ原の後、清正が宇土城主だった小西行長の家臣達を引き取ってこの櫓を管理させたことからこの名が付いたという。

02 宇土櫓 加藤神社側から見る。

03 二の丸広場から見る天守閣 左が宇土櫓、真中が小天守、右が大天守。

04 櫓と石垣

05 櫓と石垣

06 櫓と石垣

07 西大手門

08 大手門付近石垣

09 大手門付近石垣

10 本丸側から見る宇土櫓

11 櫓内部

12 櫓内部

13 宇土櫓から見る大小天守閣

14 大天守閣 西南戦争で大小の天守閣、本丸御殿など多くを消失。昭和35年(1960)にコンクリートで再建。

15 大小天守閣

16 大小天守閣

17 天守閣から二の丸方向を見る

18 数奇屋丸 茶会や能などを楽しんだ建物。平成元年に礎石をそのまま使用して九州山地の栂、松、栗材を使って復元。

19 本丸御殿 平成20年の再建。

20 本丸御殿 清正はここに豊臣秀頼を迎えるつもりだったのではと考えられている。

21 本丸御殿「昭君之間」 中国の前漢の時代、匈奴に嫁いだ「王昭君」の物語が描かれている。

22 本丸御殿「格子天井」

23 高石垣

24 高石垣

25 二様の石垣 清正の石垣に細川家が石垣を積み足した角度が違う石垣。

26 櫓と石垣

27 櫓と石垣

28 本丸御門下「闇り通路」 地下通路を通って本丸御殿に入る。

29 飯田丸五階櫓 平成17年の再建。清正の家臣、飯田覚兵衛が管理していた櫓。小天守並みの構えを持ち、内部に井戸、鉄砲蔵まである。

30 不開門 普段は開かずの門で、不浄なものを運ぶ時などに開いた。国重要文化財。

31 不開門 門の外側から見る。

32 櫓と石垣

33 長塀と坪井川 城の内堀として利用された川に面して東西に242m続く。城で一番長い塀。

34 三の丸「旧細川刑部邸」長屋門 別名長岡刑部家。肥後細川家初代忠利の弟が興した家で、下屋敷として使われていたのを平成6年に現在地に移築。上級武家屋敷の格式をよく残す。県指定重要文化財。

35 旧細川刑部邸

36 旧細川刑部邸 そのまま時代劇の撮影に使えそうな座敷だ。

37 旧細川刑部邸 全体がとても簡素で美しい。

38 通町筋電停から見る熊本城

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