Web-ProPhoto.com
2013年7月23日掲載・2013年10月15日追記

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
Reportage
作品一覧
List


 富岡製糸場と絹産業遺産群   Tomioka Silk Mill and Related Sites   New Work


群馬県富岡市の官営富岡製糸場は、器械製糸が日本の近代化に不可欠と考えた渋沢栄一らが設立を計画、初代場長は養蚕の知識がある渋沢の従兄弟、尾高惇忠が勤めた。明治4年(1871)横浜の商館にいたフランス人技師ブリュナらの指導で翌、明治5年には主要な建物が完成して操業を開始した。これには幕末に海外で蚕の病気「微粒子病」が流行して世界的に生糸が不足、横浜開港で日本の蚕種(さんしゅ、蚕の卵)と生糸の取引が拡大していたという事情がある。

その頃、渋沢の親戚筋の田島弥平が蚕種の温度管理のため、屋根の上に「やぐら」と呼ぶ換気口を設けて窓の開閉で温度と湿度を調節する「清涼育」と呼ぶ方法を考案、藤岡市の高山長五郎はこれに加えて火鉢で蚕を温め「清温育」と名付けて両者共にその普及を図っていた。農家にとって養蚕が副業にちょうど良かったということもある。とりわけ群馬県は養蚕が盛んで製糸場で生産された生糸は日本の主要な輸出品として富国強兵の原点ともなった。その過程から「富岡製糸場と絹産業遺産群」の「富岡製糸場」と「高山社跡」「荒船風穴」「田島弥平旧宅」の4ヶ所がセットで世界文化遺産に申請されている。

なお、第一銀行を設立した渋沢が従兄弟の渋沢喜作らと横浜での蚕種と生糸の貿易にいかに関わったか、城山三郎の小説「勇気堂々」(新潮文庫上下)に詳しい。

使用カメラ:ニコンD800. レンズ:FX16-35mm, 24-120mm f/4G, 70-200mm f/4.

参考ページ・サイト   (リンク先を選ぶとそのページに移動します。)

この作品の撮影地点マップはこちらへ     Google Earth で開く 


各画像をクリックすると拡大表示されます。Click to enlarge.  
各作品の著作権はすべて撮影者に帰属します。
二次使用は固くお断りいたします。




01-16 富岡製糸場
群馬県富岡市富岡1-1。国指定史跡で主要な建物は国指定重要文化財。
建物は木材の骨組みに煉瓦を積み、コンクリートの代わりに漆喰を使った。煉瓦はブリュナの指導で瓦の製造に詳しい深谷出身の韮塚直次郎が郷里の瓦職人を動員して富岡の隣、甘楽町福島(旧小幡町)に窯を造って生産した。昭和14年(1939)からは片倉工業の工場になるが、昭和62年(1987)に操業を停止した。上信電鉄上州富岡駅から徒歩で15分。上信越道富岡ICから車で約10分。

01 東繭倉庫 繭を保管した煉瓦倉庫。煉瓦はフランス積みと呼ばれる方法で積まれ、風通しを良くするためにたくさんの窓が付けられた。

02 東繭倉庫

03 検査人館 製品検査を担当したフランス人の住居。

04 女工館 日本人の女工達に製糸技術を教えたフランス人女性技師の住居。

05 繰糸場 繭から糸を取る作業場。

06 繰糸場内部 昭和40年以後に設置された自動操糸機が並ぶ。

07 繰糸場の構造 トラス構造を採用した。

08 女工達 作業の様子を紹介したパネル。

09 東繭倉庫内展示室 柱と床は木材だが、見た目にも非常に堅牢な感じがする。

10 展示室パネル 当初、女工が集らず、尾高の娘、尾高勇(14)が女工第1号になって範を示した。

11 繭

12 生糸

13 ブリュナ館 建物建設と製糸作業を指導したフランス人技師の住居。

14 西繭倉庫

15 診療所 建設当初から「病院」と呼ぶ診療所があって、女工達の健康に気を使っていた。現在の建物は3代目で、昭和の片倉工業時代の物。

16 社宅 敷地内の片倉工業時代の住宅。戦後しばらくまで織物は日本の主力産業で、コンクリートの高層団地が出現するまで、こうした平屋の社宅は各地にあった。当時一般に文化住宅と呼んでいた。

17-21 高山社跡
群馬県藤岡市高山字竹之本236。国指定史跡。
明治初年に高山長五郎が蚕に夏は風通し良く、寒い時は火鉢で蚕を温める「清温育(せいおんいく)」の方法を考えた。明治17年(1884)には「高山社」を設立、各地に分教場を作ってその技術を普及させて全国標準の養蚕法となった。現在の建物は長五郎の娘婿、武十郎が明治24年(1881)に養蚕のモデルとして建てた。車の場合、上信越道藤岡ICからカーナビをセットして行ったほうが安全。

17 高山社長屋門 高山家は名主の家柄。幕末の頃のりっぱな長屋門がある。

18 母屋 住居を兼ねた養蚕のための建物。

19 分教場の写真 藤岡市本郷の分教場での記念写真。多くの生徒達がいたとわかる。

20 蚕室 蚕棚が並んだ2階の蚕室内部。

21 蚕室の床 風通しを良くし、寒い時は下から火鉢で蚕室全体を温めた。

22-26 荒船風穴
群馬県下仁田町大字南野牧字屋敷甲10690。国指定史跡。
荒船山の山中で岩の間から冷風が噴出するのを利用した蚕種を貯蔵した場所で、3基の風穴がある。石垣で囲ってあたかも戦国時代の城跡のようだ。明治38年(1905)から事業を開始、電気冷蔵技術が普及する昭和10年頃まで全国の養蚕農家から蚕種を預かってその貯蔵能力は国内最大規模だった。それまで蚕は年1回の春蚕が中心だったが、温度調節で年3回の養蚕が可能になったという。国道254号線沿いの荒船温泉に近く、内山峠に近い神津牧場にも道路が通じている。

22 集落全景

23 風穴の説明パネル

24 2号風穴

25 風穴 現在も冷風が噴出している。

26 ガイドによる説明

27-29 田島弥平旧宅
群馬県伊勢崎市境島村2243。国指定史跡。
渋沢栄一の出身地に近い島村集落は利根川に面した埼玉県側に位置する。幕末、田島弥平が蚕種を涼しい環境におくために屋根の上に「やぐら」と呼ぶ換気の窓(越屋根、天窓ともいう)を付けて「清涼育」と名付けた。明治5年(1872)弥平は「養蚕新論」を出版してその普及に努め、蚕種業で日本最初の株式会社「島村勧業会社」を設立する。イタリアに4回直輸出するなど島村の蚕種は当時のブランド品だった。

27 田島弥平旧宅 文久3年(1863)築の県内最大級の養蚕家屋で現当主は健一氏。現在も居住しているため庭までは入れるが、建物内部は非公開。

28 貞明皇后行啓記念碑 渋沢栄一の推薦で田島弥平は田島武平とともに明治4年から宮中の養蚕の世話役を勤めた。昭和23年に大正天皇の皇后、貞明皇后が群馬県内の養蚕施設を視察した際に田島宅に立ち寄って、弥平が記念碑を建てた。

29 養蚕新論版木 境島小学校に隣接した田島弥平旧宅案内所(境島村1968-378)にその他の資料とともに展示されている。

30 やぐらのある農家 各地で今でもよく見かける造りで、島村地区には今もやぐら付き大型農家が点在している。

31-35 埼玉県深谷市との友好都市提携協定調印式
2013年10月4日、富岡製糸場で群馬県富岡市と埼玉県深谷市の友好都市提携協定調印式が行われた。渋沢栄一と尾高惇忠と煉瓦を焼いた韮塚直次郎が深谷出身であることから、世界遺産認定を目指す今、両市の縁をよりアピールするため、深谷市の小島進市長らが製糸場を訪問して東繭倉庫内で式典があった。深谷市のマスコットキャラクターで全国的に人気が高い「ふっかちゃん」と富岡市のマスコットキャラクター「お富さん」も参加、笑いに包まれたなごやかな調印式となった。たまたま製糸場の見学に来た小学生達はふっかちゃんとお富さんに歓声を上げて記念撮影となった。

31 左が岡野光利・富岡市長、
   右が小島進・深谷市長

32 調印式にて 左端がお富さん、右端がふっかちゃん。

33 東繭倉庫正面にて

34 小学生達と記念撮影

35 両市の面々も記念撮影

本作品の撮影地点マップはこちらへ

この写真家の作品一覧へ   Web-ProPhoto.com トップページへ   ▲このページの先頭へ

Copyright © Satoshi Niwa and Web-ProPhoto.com 2013. All rights reserved.