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2014年6月11日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
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 吉備路   Kibiji (Northwestern Okayama and Soja area)   New Work


再び岡山に行った。吉備路に見るべき所は多い。特に秀吉の妻「ねね」の実家、足守藩木下家の城下町に関心があった。蘭学者、緒方洪庵が生まれた小藩だ。岡山城、備中高松城、足守藩の城下町、鬼の城(きのじょう)を急ぎ足で回わることにした。

仕事の取材を終えて岡山城に着いたのは午後の3時過ぎ。天気は曇り。宇喜多秀家が父親の直家が造った石山城を拡張して近世の大城郭に変貌させたのが岡山城で、その後、小早川家、池田家と藩主は変わった。天守閣は同時代の多くの城と同じく外壁の下見板が黒く、瓦に金が貼られているために「烏(からす)城」または「金烏城」の異名が付いた。

翌日の天気は晴れ。岡山からJR吉備線で備中高松に向かい、駅前から歩いて5分程で備中高松城に着いた。この城は備前から備中松山城に至る街道の途中にあり、秀吉の「水攻め」で世に名高い。今は周囲にハスの花が咲く高松城址公園になっていた。資料館があったが時間が早く空いてないので次の足守に駅前からタクシーで向かった。

足守藩は秀吉(結婚当時は木下藤吉郎)の妻「ねね」の実家の杉原氏が「木下」姓を名乗った小藩で、家老の屋敷と商家の街並みが残っている。緒方洪庵の生家跡にはブロンズ像と顕彰碑があった。洪庵が大阪に開いた「適塾」は福沢諭吉、大村益次郎、高松凌雲ら多くの人材を輩出してのちに国立大阪大学へと発展する。生家跡のわきのトンネルは「洪庵トンネル」の名が付くなど、街の所々に洪庵の名前が見受けられる。足守の人々が洪庵をとても誇りにしているのが感じられた。足守からは再びタクシーで鬼の城に向かった。

鬼城山の駐車場から山道を登ると10分程で山頂の楼閣が目に入った。飛鳥時代の天智2(663)年、百済救援のために朝鮮半島に出兵した日本軍は白村江(はくすきのえ 又は はくそんこう)の戦いで唐、新羅の連合軍に敗れた。今度は連合軍が日本に攻めて来ると恐れた朝廷は監視のために瀬戸内海に沿って複数の山城を構築したという。鬼の城はその遺構だと考えられている。山を降りてタクシーに乗ると運転手さんが是非に吉備津神社も行けという。時間が残り少ないが行くことにした。

吉備津神社は吉備路の一の宮で、鬼の城にまつわる桃太郎伝説がある。回廊の長さと社殿の壮麗さには驚いた。観光客の半数が外国人だ。飛鳥時代は渡来人が大勢日本にやって来て大陸の先進文明を伝えた。そのことを考えながら吉備津駅には歩いて5分程で着いた。

使用カメラ:ニコンD800, D3200. レンズ:16-35mmf/4, 24-85mmf/3.5-4.5 VR, 70-200mmf/4.

参考地図
http://www.city.okayama.jp/contents/000049672.jpg



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01-09 岡山城
戦国の梟雄、宇喜多直家は謀略を駆使して備前を掌握、天正元(1573)年現在の岡山市石山に城を築いた。その頃、織田信長が破竹の勢いで勢力を拡大、室町幕府15代将軍の足利義昭を京から追放した。直家にも秀吉の調略の手が伸びて秀吉の傘下に入るが、天正9(1581)年に直家は病没する。妻の「福」は8歳で家督を継いだ秀家を秀吉の養子にして家の存続を図った。秀家は秀吉に可愛がられ、前田利家の娘、豪を嫁に迎えて57万4千石の大名に出世する。そこで57万石にふさわしい城をと、8年をかけて岡山城を拡張して慶長2(1597)年にはほぼ完成するが、翌年に秀吉が亡くなって状況は一変する。石田三成と徳川家康が激しく対立、慶長5(1600)年の関ケ原合戦で秀家は西軍に属してすべてを失う。豪は前田家に戻され宇喜多家は改易の処分を受けた。秀家は斬首されるところを前田家の懇願で命は助けられたが、二人の子供とともに伊豆八丈島に配流になった。悲劇だった。その後、前田家は明治維新で宇喜多一族が赦免されるまで、八丈島に生活物資の仕送りを続けている。

戦後、岡山城は小早川秀秋が城主になったが、世継ぎがなくこれも改易の処分を受け、江戸時代を通じて池田家が治めた。池田家は岡山と鳥取の二つの藩に分かれてその石高は合わせて60万石を超える大藩だった。江戸時代の天守閣は昭和20年の空襲で焼け、現在の天守閣は昭和41(1966)年のコンクリートによる再建だ。国指定史跡。岡山市北区丸の内2丁目3-1。
岡山城公式サイト
http://www.city.okayama.jp/museum/okayamajou/index.htm

01 旭川から見る岡山城 旭川を天然の外堀とした。

02 岡山城 内下馬門跡の石垣 池田家が築いたという石垣。

03 岡山城 大納戸櫓跡の石垣 関ケ原合戦後に小早川秀秋が造り、のちに池田家が改修した石垣。

04 岡山城 不明門(あかずのもん) 表書院から本丸に通じる門。池田家の時代、普段は別の通路を利用して通常は 閉ざされ、そのために不明門の名が付いた。明治に入って取り壊されたが昭和41(1966)年に天守閣と同時に再建された。

05 岡山城 天守閣の礎石 元の位置にコンクリートで再建したため、出土した礎石が不要になった。そのため本丸内に出土した礎石を並べて当時の様子を再現している。

06 岡山城 塀の鉄砲狭間

07 岡山城 金の鯱 旭川の向こうに池田家2代藩主、綱政が元禄13(1700)年に造った大名庭園「後楽園」がある。

08 岡山城 月見櫓 元和(1615)から寛永年間(1643)の建築と見られ、空襲でも焼け残った。この頃の池田家4代藩主、忠雄(ただかつ)の父は織田信長の近習の池田輝政で、母は家康二女の督姫だから筋金入りのエリートだ。国指定重要文化財。

09 岡山城 穴蔵 非常用食糧の保存に使われたと見られる穴。月見櫓のわきにある。


10-13 備中高松城
天正10(1582)年、3~5千名の将兵が籠る高松城を秀吉勢2万、宇喜多勢1万の計3万の軍勢で取り囲んだ。城は沼地に囲まれた天然の要害だから攻略は困難かに見えた。しかし、秀吉は常人が考え付かない発想をする男でしかも土木工事の天才だった。農民に銭を与えて約2.6キロの長大な土塁をわずか12日間で築いて、梅雨時の長雨を利用して城を水没させるという奇想天外な作戦を取った。城兵は籠城1ヶ月で飢餓に追い込まれ、足元には水が押し寄せた。これでは戦にならない。

秀吉はこの前年の鳥取城攻略であらかじめ因幡の米をすべて高値で買い占めた上で、民家と田を焼き払い、民を城に逃げ込ませた。城内を人で溢れさせて食糧不足にして飢餓に追い込むためである。城兵と民は食物が無くなって牛馬だけでなく人肉まで喰らった。信長の祐筆、太田牛一の「信長公記」にその悲惨な様が描かれている。城はついに降伏、守将の吉川経家は城兵と民の命と引き換えに切腹して果てた。

この備中高松城の攻防中に「本能寺の変」が起きた。秀吉は毛利家と手打ちをして城主の清水宗治ら4名が切腹することを条件に将兵の命を助けた。そして「中国大返し」で軍団を京に急行させて明智光秀を山崎の合戦に破り、秀吉は信長の後継者争いのトップに躍り出た。

余談だが、最近、秀吉は公家達が光秀をそそのかしているのを知って謀反を予想していたとする仮説が唱えられるようになった。(文芸社文庫「本能寺の変 431年目の真実」明智憲三郎著, 2013年12月15日発行)

国指定史跡。岡山市北区高松558。

10 備中高松城全景 大海の中の小島のような地形を土塁で囲っただけで、城というよりも「砦」の語感に近い。中世の平城は周囲を泥田で囲んで大手門に至る道を一本道にして、大部隊での一斉攻撃を防ぎ、馬も人も泥に足を取られて身動きが出来ないようにする所が普通だった。

11 備中高松城 本丸広場

12 備中高松城 清水宗治の首塚 明治末年に改葬した。

13 備中高松城 清水宗治の辞世の句 「浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して」


14-35 足守藩の城下町(岡山市北区足守地区)
豊臣秀吉の妻「ねね」は秀吉の織田家の同僚、杉原家定の妹で、当時「木下藤吉郎」と名乗った秀吉と所帯を持った。ちなみに「ねね」の妹は浅野長政に嫁いでいる。そして秀吉の出世に伴って家定も「木下」姓を称した。「ねね」も秀吉の更なる出世で「北の政所」と呼ばれるようになり、家定は北の政所の実家として2万5千石の播磨姫路城主になっていた。だが、秀吉が亡くなって石田三成と徳川家康の対立が激化、関ケ原合戦に発展するが、高台院と名乗っていた「ねね」は中立の立場をとる。家定もそれにならった。

関ケ原合戦は家康が勝利し、中立を守った家定は翌年の慶長6(1601)年に播磨姫路城から備中足守に同じ石高で所替えになった。これが2万5千石足守藩木下家の始まりである。一時中断するが、明治まで13代続いている。そして岡山には家定の実の子、小早川秀秋が55万石の藩主として入った。一方、家定の三男、信俊は、関ケ原合戦に初めから東軍に参加して恩賞に九州豊後日出(ぶんごひじ)藩3万石を得ている。この藩も幕末まで16代が無事に続いた(のちに分家して2万5千石)。
参考サイト・岡山市教育委員会文化財課「足守藩主木下家」
http://www.city.okayama.jp/museum/samurai-yashiki/kinoshita.html
ところで、家定の5男の秀俊は幼児の時に秀吉と「ねね」の養子に行く。成人して今度は毛利輝元の叔父、小早川隆景の養子に行き、小早川秀秋と名乗る。そして関ケ原合戦が起き、西軍の総大将は毛利輝元だから小早川勢1万5千の軍勢は西軍陣地の松尾山にいた。ところが、秀秋は突然、西軍の大谷吉継の陣に襲い掛かかって戦闘は東軍の大勝利に終わった。秀秋の裏切りは関ケ原合戦の最大の謎になった。

戦後の論功行賞で秀秋は宇喜多秀家の旧領の岡山55万石を得たが、2年後の慶長7(1602)年に20歳の若さで世を去る。すると徳川政権は秀秋に世継ぎがいないことを理由に改易してしまう。裏切りの汚名を着ても徳川に加担したのに、徳川政権は容赦がなかった。岡山城は池田家が手にした。

14 足守藩の城下町
   城下町の街並み
足守街並み保存地区。

15 足守藩の城下町
   旧足守藩侍屋敷遺構
国家老の杉原家の屋敷で昭和48年に岡山市に寄贈。家老職の格式の残る建物で、写真右側の小さい門は藩主専用の御成門。屋敷全体が県指定重要文化財。岡山市北区足守752。

16 旧足守藩侍屋敷 母屋

17 旧足守藩侍屋敷 表座敷

18 旧足守藩侍屋敷 台所

19 旧足守藩侍屋敷 竈

20 旧足守藩侍屋敷 土蔵

21 足守藩の城下町
   旧木下権之助屋敷表門
足守小学校の敷地内。弘化3(1846)年築の藩主一門「北木下家」の表門。明治時代は足守小学校の正門に使用した。市指定重要文化財。岡山市北区足守789。

22 足守藩の城下町
   旧木下権之助屋敷表門の窓


23 足守藩の城下町 旧商家

24 足守藩の城下町 旧商家

25 足守藩の城下町 旧商家

26 足守藩の城下町
   旧藤田千年治(ふじたせんねんじ)
江戸時代末の商家の建物。明治に入って藤田千年治が醤油製造販売を営んだ。市が改修して公開している。岡山市北区足守916。

27 旧藤田千年治邸 大福帳

28 旧藤田千年治邸 醤油樽

29 旧藤田千年治邸 梁

30 旧藤田千年治邸 職人の前掛け

31 旧藤田千年治邸 看板

32 足守藩の城下町 緒方洪庵像 鍛冶山のふもと、海禅寺わきの洪庵の生家跡にブロンズ像と顕彰碑がある。文化7(1810)年、藩士の家に生まれ、大阪に出て蘭方医、中天遊に、その後は江戸の坪井信道に蘭学を学び、長崎に遊学して天保9(1838)年29歳で大阪に「適塾」を開いた。天然痘予防の「除痘館」を設置して種痘を施し、足守にも藩主の招きで嘉永3(1850)に除痘館を設置、種痘を施した人々の数は5,000名に及ぶと言う。顕彰碑の下には「元服の際の髪と臍の緒」が納められている。県指定史跡。岡山市北区足守

33 足守藩の城下町 旧足守藩陣屋跡 建物はすでになく、小さな堀のみが残る。

34 足守藩の城下町
   木下利玄(りげん)生家
利玄(本名、としはる)は明治~大正の歌人。明治19(1886)年、藩主一族に生まれて5歳で叔父の12代藩主、木下利恭(としゆき・子爵)の養子に行って木下宗家を継いだ。13歳で和歌を佐々木信綱に学び、明治43(1910)志賀直哉、武者小路実篤らと「白樺」を創刊。大正14(1925)年、40歳の若さで世を去った。建物は陣屋の並びにあり、もと藩庁の一部という。県指定史跡。

35 足守藩の城下町
   近水園「吟風閣」
御殿山(宮路山)を背景に足守川の水を引き入れた小堀遠州流の大名庭園、近水園(おみずえん)の建物。6代藩主、木下?定(きんさだ)が、宝永5(1708)年、京都の仙洞御所を造営した際の残材を運んで建てたという。岡山県には他に大名庭園として岡山藩「後楽園」津山藩「衆楽園」がある。県指定名勝。岡山市北区足守803。


36-38 鬼の城(きのじょう)
昭和53(1978)年からの学術調査で、総社市奥板の標高約400mの鬼城山(きじょうざん)の山頂付近から外郭や礎石などの遺構が出土した。古代の山城と確認されて昭和61(1986)年に国指定史跡になった。城壁を高石垣と土築で築き、雨水の浸透による崩落を防ぐための敷石を敷いている。スケールの大きさと古代土木技術の水準の高さに驚かされる。この位置からは高梁川河口の酒津と水島灘が遠望出来るという。西門と呼ぶ城門とこれに対する攻撃を防ぐための角楼が復元されている。岡山県総社市奥板1762。
参考サイト「岡山県古代吉備文化財センター」
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/kinojou-top.html

36 鬼の城「西門」 平成16(2004)年に復元された門。

37 鬼の城 西門 下から見上げる門。

38 鬼の城 敷石 一面に敷かれている。

39 鬼の城 角楼 西門への攻撃を阻止するためと思われる城壁を復元した。張り出し部をもつこの遺構を角楼と呼び、出土は日本で初めてのことだという。上に構造物があったかどうかは不明。


40-42 吉備津神社
備前、備中、備後の「一の宮」である。昔、百済から来た皇子が鬼の城に住み着いて里の人々に悪さをした。人々はその皇子を「温羅(うら)」と呼び、恐れたが、都から来た吉備津彦が戦って勝ったという伝説がある。桃太郎伝説と関連があるとかで、一帯に遺跡と言い伝えがあるそうだ。国宝の本殿と拝殿は過去に2回火事で焼け、現在の社殿は室町時代の将軍義満の時代、応永32(1425)年に再建された。岡山市北区吉備津931。

40 吉備津神社 社殿 京都の八坂神社に次ぐ大きさである。屋根は出雲大社の約2倍の広さといい、その壮麗さは圧巻。

41 吉備津神社 新緑と社殿

42 吉備津神社 回廊 天正7(1579)年に自然の地形に沿ってそのまま一直線に建てた回廊で全長360m。その長さに度肝を抜かれた。一見の価値あり。県指定重要文化財。

43 「軍師 官兵衛」 今年のNHK大河ドラマは「軍師 官兵衛」。JR吉備線吉備津駅のホームで電車を待っていると、反対側に偶然「軍師 官兵衛」のラッピング車両が来た。官兵衛の家は、祖父、黒田重隆の代に備前福岡から播磨に行って小寺家に仕えた。秀吉の中国平定に官兵衛は早くから従い、軍師を務めた。何度も何度も播磨から備前、備中と調略に駆けずり回ったに相違ない。

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