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2014年7月5日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
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 武蔵国カメラ風土記33 深谷の三偉人
 Three great persons of Fukaya   New Work


埼玉県深谷市は群馬県富岡製糸場の設立を企画した渋沢栄一、初代場長の尾高惇忠、工事を請け負った韮塚直次郎のことを「深谷の三偉人」だとPRしている。6月21日に「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界文化遺産に登録された翌22日、渋沢栄一記念館前で小島進深谷市長を中心に市民が万歳を三唱、心からお祝いした。

尾高惇忠の生家は6月7日から(当分の間)毎日一般公開になり、渋沢の生地「中の家」や「渋沢栄一記念館」「誠之堂・清風亭」とともに、連日大勢の見学者が訪れている。世界遺産になったお隣の群馬県伊勢崎市「田島弥平旧宅」から車で10分弱の距離で、近くには人気の道の駅「おかべ」もある。大型観光バスもやって来るようになった。

6月3日、東京飛鳥山の渋沢栄一記念財団にお願いして渋沢が使った「篆刻」「時計」「帽子」などを撮影、6月25日には青森で取材があったので終了後に三沢市の渋沢邸に行き、翌26日は渋沢が設立に助言を与えた弘前市「旧第五十九国立銀行、現・青森銀行記念館」に行った。さらに、6月28日から深谷の渋沢栄一記念館に韮塚直次郎が神社に奉納した「富岡製糸場図大絵馬」の展示が始まったのでこれも撮影させてもらった。

所で、今まで韮塚直次郎は瓦職人の棟梁と伝えられていたが、今回、御子孫の指摘で瓦職人ではなく商人で、親分肌の人物であったと明らかにされた。瓦職人、左官屋、大工など職人達の世話を良くする皆に頼られた人物であったようだ。写真を初めて見たが中々に眼光鋭い人物である。

使用カメラ:ニコンD800, D3200. レンズ:FX16-35mmf/4, 24-70mmf/2.8, 24-85mmf/3.5-4.5VR, 24-120mmf/4, 105mmf/2.8マイクロ, 70-200mmf/4.

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01-08 東京飛鳥山「渋沢史料館」
東京都北区西ヶ原2-16-1。特に許可を得て撮影。

01 渋沢の「篆刻(てんこく)」 落款のこと。黒檀製で、渋沢は「書」を良くした。

02 渋沢の「篆刻(てんこく)」

03 篆刻の箱 箱も芸術品。

04 渋沢の帽子 渋沢らが設立した東京帽子社製。メーカーのホームページによれば、明冶22(1889)年に日本製帽会社を東京小石川に設立、明治25(1892)年に解散して新たに「東京帽子株式会社」を興した。昭和60(1985)年に「オーベクス株式会社」に社名を変更、現在は、サインペンのペン先や医療機器を製造販売する東証二部上場の企業に発展した。平成19(2007)年に洋傘やスカーフなど服飾製品を手掛ける明治29(1896 )年創業のオーロラ株式会社に帽子事業を譲渡、帽子は現在も「TOKIO HAT」の商標で製造販売されている。(参照ページ:http://www.aurora-accent.co.jp/tokiohat/01.html)

05 鳳凰マーク 「TOKIO HAT」の商標「鳳凰マーク」に渋沢のイニシャル「ES」が付いている。

06 渋沢の懐中時計

07 渋沢のステッキ 東京常盤橋公園や青森県三沢市の渋沢庭園の渋沢の銅像にステッキが握られている。

08 フランスから持ち帰った石鹸 渋沢が慶応3(1867)年、水戸昭武のパリ万博渡欧に随行した際に持ち帰ったとされる石鹸。


09-10 青森県三沢市古牧温泉「渋沢公園」
青森県三沢市古間木山56。

09 渋沢邸 明治11(1878)年に清水建設の清水喜助(二代目)が建てた深川福住町の渋沢邸を三沢市に移築している。平成3(1991)年、渋沢家の執事を務めた故、杉本行雄氏が運営する青森県三沢市の古牧温泉に移築したが、現在は星野リゾート青森屋が運営している。6月25日青森の取材が終わって三沢に着いたのが18:00近くで薄暗く、止むを得ず、カメラのISO感度を6400に設定して撮影した。時間と天気のせいか、建物がとても傷んでいるように見える。(参照ページ:清水建設のサイト http://www.shimz.co.jp/theme/retrofit/1105.html)

10 渋沢栄一と渋沢敬三の銅像 渋沢邸のわきに二人の銅像がある。敬三は栄一の孫で、日銀総裁や大蔵大臣を務めた。栄一像は東京常盤橋の栄一銅像と同じデザインだ。


11-12 深谷市「中の家」
深谷市血洗島247-1。

11 渋沢生地「中の家」の講座 深谷市は「深谷の三偉人」の業績を学ぼうと講座を開いている。6月21日「中の家」の副屋(中の家の建物のひとつ)にて。

12 ふっかちゃん 中の家の門前で深谷市のゆるキャラ「ふっかちゃん」。6月29日「深谷の三偉人まつり」に出演。


13-19 深谷市「尾高惇忠生家」
深谷市下手計236。

13 尾高惇忠生家 この家の二階で渋沢や尾高らが高崎城乗っ取りを計画した逸話は有名だ。尾高家は菜種油、蚕種、藍玉を扱う商人で屋号は「油屋」。だが、惇忠は商人としてより水戸学を信奉する論客として知られていた。渋沢の論語の師匠でもあり、屋敷内に剣道場を構えた剣客でもあった。この北関東から上州にかけては剣術が盛んな所で、次弟の長七郎は剣の達人と云われ、早くから尊王攘夷運動に走り、殺人の咎で幕府に捕えられている。明治維新まで伝馬町の牢につながれて釈放後に死亡した。建物は築、約200年と推定され、今年3月に尾高家の御厚意で深谷市に寄贈された。6月7日から当分の間ということで毎日一般公開している。

14 尾高惇忠生家 ボランティアによる解説。

15 尾高惇忠生家 ボランティアによる解説。

16 尾高惇忠の写真 栄一と千代の長男「篤二」が明治33(1900)年、尾高70歳の時に撮影した写真。惇忠はその翌年71歳で世を去った。

17 柱や梁に欅 外壁は傷んでいるが、内部は重厚な造り。

18 井戸

19 煉瓦の蔵 明治30年頃、尾高家7代目が栄一の設立した日本煉瓦製造製会社に勤めていた縁で建てたという。


20-26 深谷市「渋沢栄一記念館」
深谷市下手計1204。6月28日から尾高惇忠、韮塚直次郎らの新たな資料が加わって展示が充実して来た。特に許可を得て撮影。

20 富岡製糸場図大絵馬 明治13(1880)年に韮塚直次郎が深谷市田谷の永明稲荷神社に奉納した絵馬。韮塚は富岡製糸場に近い甘楽町福島の笹森稲荷神社東側で煉瓦を焼き、笹森神社にも同様の絵馬を奉納している。この深谷の絵馬は平成17(2005)年に深谷市文化財の指定を受け、深谷市田谷の自治会館に保管されていたが、6月28日から渋沢栄一記念館に展示された。

21 韮塚直次郎の写真 文政6(1823)~明治31(1898)。韮塚は深谷の明戸の住人で、尾高家の商いである菜種油、蚕種、藍玉の販売に功があった。そのため、尾高惇忠の信頼が厚く、渋沢が尾高に富岡製糸場の建設を依頼すると尾高は直次郎を頭に建設に取り組み、直次郎は明戸の瓦職人と大工を引き連れて富岡に移住した。そして苦労して煉瓦を焼き、セメントの代わりに漆喰を使用するなどの工夫をする他、資材の調達に能力を発揮、製糸場建設に欠くべからざる人物になった。製糸場の完成後は賄方として活躍して資材の購入、販売、総務などの仕事を一手に引き受けて、十分に尾高の期待に応えた。明治9(1876)年には自らの韮塚製糸場を開いて伝習工女の養成にも貢献したという。

22 韮塚家の茶釜(個人所有) 富岡製糸場が開業した翌年の明治6年、英照皇太后(幕末の孝明天皇の女御、明治天皇の即位で皇太后になる)と昭憲皇后(明治天皇の皇后)の富岡製糸場視察の際に直次郎が用意したという茶釜。明治4年、昭憲皇后は宮中で養蚕を始め、この時に渋沢が隣村の親戚、群馬県伊勢崎市島村の田島弥平と武平を推薦し、二人は宮中で養蚕の世話役を務めた。昭和23年に大正天皇の皇后、貞明皇后が群馬県内の養蚕施設を視察した際は田島弥平宅に立ち寄った。(参照ページ:丹羽 諭 Web-ProPhoto写真展「富岡製糸場と絹産業遺産群」http://sniwa.web-prophoto.com/052tomioka.html#28)

23 韮塚直次郎の墓碑(個人所有) 直次郎が生前に尾高惇忠に書いてもらった碑文。墓は群馬県富岡市の龍光寺(富岡市富岡1093)にある。

24 6月22日朝の「くす玉割り」 富岡製糸場が世界遺産に決定した翌日、深谷の渋沢栄一記念館前に小島進市長と市民200人が集まってお祝いをした。

25 万歳三唱

26 お祝いの獅子舞 渋沢栄一記念館内。 6月29日「深谷の三偉人まつり」で。


27-29 深谷市「旧日本煉瓦製造会社」
深谷市上敷免28-10。

27 ホフマン輪窯6号窯 明治20(1885)年に渋沢が設立し、翌21年から操業を開始した旧日本煉瓦製造会社の輪窯。6月29日に特別公開。国指定重要文化財。この会社で焼かれた煉瓦で東京駅や丸の内、霞が関の官庁街が建設された。

28 見学はヘルメットで…

29 日本煉瓦製造会社の社章 社章をデザインしたはっぴ。


30-33 「青森銀行記念館」
青森県弘前市元長町26。

30 青森銀行記念館 明治12(1879)年、渋沢の助言と協力で「第五十九国立銀行」を設立した。この建物は明治37(1904)年築の、昭和47(1972)年に国重要文化財の指定を受けた弘前を代表する洋館で現在は記念館。明治9(1876)年に津軽藩家老の大道寺繁禎(だいどうじしげよし)が銀行を設立すべく、東京の渋沢邸を尋ねて協力を要請、藩士が東京の第一銀行で業務を学んで開業に至った経過がある。もちろん、大道寺が初代頭取になった。昭和18(1943)年に他行と合併、青森銀行と名を変えて本店は青森市に移転した。

31 館内 設立に至る過程の書類や当時の貨幣など、とてもわかりやすく展示している。

32 銀行設立書類 渋沢が指導した銀行設立の書類。写真右上に大隈重信の名前もある。写真は右側が大道寺繁禎、左が渋沢。

33 渋沢のサイン 上段の書類に青森銀行発起人宛の「明治11年3月…第一国立銀行頭取、渋澤栄一」のサインがある。銀行設立の前年の書類だ。渋沢が富岡製糸場を開業させたのが明治5(1872)年、第一国立銀行を設立したのが明治6(1873)年だ。明治11(1878)年は西南戦争の翌年のことで、伊藤博文や大隈重信の働きかけで3月に渋沢は東京商法会議所(現在の東京商工会議所)を設立、さらに6月に東京証券取引所を設立している。渋沢38歳の時で、まさに八面六臂の活躍だ。ちなみに渋沢の「第一国立銀行」とは国立銀行条例によって出来た民間の銀行で、中央銀行としての日本銀行の営業開始は明治15(1882)年を待たねばならない。渋沢の第一国立銀行は明治29(1896)年に「第一銀行」と名を改めている。


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