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2014年9月26日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
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 近江八幡の城下町と近江商人
 A Catsle Town of Omihachiman and Omi merchants   New Work


天正13(1585)年、豊臣秀吉の甥の秀次18歳は近江国に43万石を得て滋賀県近江八幡市に八幡山城を築いた。秀吉が秀次に仕えさせた田中吉政は、近江国出身で地理と築城に明るい。他にも中村一氏、山内一豊、浅野幸長(よしなが)など、豊臣政権を支える若手の有力な家臣団がいた。

秀吉も近江を熟知している。その指示と考えるのが自然だが、安土城下の商人や職人を八幡町に移し、築城と同時に城の防御と物流のために八幡堀を掘った。城下を碁盤目状に区画、職種別に町割りをして上下水道を備え、楽市楽座を定めて商いを自由とした。

それから5年後の天正18(1590)年、秀次は尾張清州に100万石で転封を命ぜられ、太閤になった秀吉の後を継いで24歳で関白に昇進する。秀次は秀吉の聚楽第を邸宅にし、八幡山城には京極高次が入った。誰しもが次の天下人は秀次だと思った。

文禄2(1593)年、秀吉に秀頼が生まれて状況が一変する。都に不穏な空気が漂い、2年後、秀次謀反の噂が流れた。秀吉は激怒して秀次を切腹に追い込み、正妻や側室、侍女、子供の30数名と、秀次が側室に迎えたばかりの最上義光の二女「駒姫」15歳までも京の三条河原で処刑した。田中吉政、中村一氏、山内一豊を除く秀次の家臣多数に切腹の命を下し、秀次の実父、三好吉房は讃岐に (秀吉の死後に赦免)、浅野幸長を能登に流罪にした (前田利家のとりなしでのちに赦免)。さらに聚楽第と八幡山城を徹底的に破却、京極高次は大津に転封させた。このあまりに過酷な仕置きに人々は絶句したが、事件の真相は今も歴史の闇の中だ。

八幡山城は無くなったが、秀吉は町までは壊さなかった。商人達は天秤棒を担いで各地に行商に出向く。彼らは近江商人と呼ばれて「買い手よし、売り手よし、世間よし」の「三方よしの理念」の商いは高い信用を得た。京、大阪、江戸に店を持った寝具の西川は東京日本橋に「西川産業」として今も続いている。

時代が下って明治38(1905)年、英語教師として来日した米国人ウィリアム・メレル・ヴォーリズは「近江兄弟社」を設立、キリスト教の普及に努めるかたわら米国の家庭常備薬メンソレータムを製造販売した。さらには建築技師として日本各地に多くの洋館を残し、市内にはヴォーリズが設計した建物が数多くある。
なお、今、メンソレータムの商標権はロート製薬に移り、近江兄弟社はメンタームを製造販売している。

使用カメラ:ニコンD800, D3200. レンズ:FX 16-35mmf/4G, 24-85mmf/3.5-4.5G VR, 70-200mmf/4G.
参照サイト

近江八幡観光物産協会
http://www.omi8.com/

西川産業の歴史
http://www.nishikawasangyo.co.jp/company/history/


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01 豊臣秀次像 秀次は秀吉の姉の子で正妻は池田恒興の娘。実の弟に秀勝と秀保がいた。数少ない秀吉の身内だが二人とも若くして世を去っている。秀勝は朝鮮の役で病死、秀保も病死した。秀次は秀吉と対立して文禄4(1595)年、28歳で高野山青巌寺(現金剛峰寺)にて切腹。事件が秀吉政権の弱体化を招いたことは間違いなく、秀次が自ら関白の座を辞任すれば事は起きなかったかも…とする説は多い。だが、八幡市民にとって、わずかな期間に将来を見越した都市設計をして、今日の八幡市発展の基礎を築いた良き主君だった。八幡公園内。

02 八幡堀 琵琶湖に通じる全長4,750mの掘。江戸時代は物流の大動脈だが、車社会になって水運が衰退、堀はヘドロが溜まって市は埋立てを計画した。これに反対した青年会議所を中心に市民がボランティアで清掃して昔の面影を取り戻した。市は基本的な考え方として観光を「近江八幡市の暮らしの文化を見ること」と定義づけ、営利目的だけの観光客誘致はしなかった。それでも今では旧安土町を含めて年間300万人を超える観光客が訪れるという。堀を中心とする一帯は平成3年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」の指定を受けた。

03 八幡堀の観光船

04 観光船発着所

05 石畳のマンホール 八幡堀のデザイン。

06 八幡堀を眺める学校帰りの小学生

07 白雲館 明治10(1877)年の西南戦争の年に八幡東学校として開校。明治28(1895)年からは八幡町役場に、さらには蒲生郡役所と変遷し、現在は観光案内所。この建物から道路を挟んで日牟禮(ひむれ)八幡宮の鳥居をくぐった所に八幡堀がある。市内為心町元9。

08 尾賀商店 築150年の古民家で戦前までは砂糖問屋。戦後は履物の卸し業を営んだが、今は現役の貸店舗。印判、レストランなどの洒落た店が営業中。永原町中12。


09-13 旧西川家住宅


09 旧西川家住宅 西川利右衛門家の本宅で屋号は「大文字屋」。蚊帳や畳表を扱った大店。京、大阪、江戸に出店して約300年間、11代続いた。主屋は京風の造作を取り入れて3代目が宝永3(1706)年に建てた。築300年を超える八幡町を代表する商家の建物で国指定重要文化財。(市立資料館はこの西川家住宅、郷土資料館、歴史民俗資料館、旧伴家住宅の4館で構成し、入場券は郷土資料館で受付)。新町2丁目。

10 1階正面の座敷。

11 土間の暖簾。

12 1階奥座敷。

13 床の間に、別家する家に下げ渡した家訓「先義後利栄・好富施其徳」と記した掛軸があった。「義を先にし、利を後にすれば栄え、富を好とし、その徳を施せ」と諭した掛軸である。道理をわきまえて商いをすれば利益はついて来るという教えで、のちに渋沢栄一も「経済には道徳が必要」と力説している。現代の企業にぜひとも学んで欲しい言葉だ。


14-15 郷土資料館


14 郷土資料館 西村太郎右衛門の宅地跡に建つ、元近江八幡警察署の建物を資料館にしている。商いの道具、古文書などを展示。新町2丁目。

15 昔のレジスター。


16-20 歴史民俗資料館


16 歴史民俗資料館 森五郎兵衛の控宅(別宅)を資料館にした。入口は郷土資料館から入る。写真は土間。

17 土間の竈(カマド)。京言葉で「おくどさん」。左は「釜」真中が「蒸籠と釜」右が「茶釜」。

18 酒店の「酒器」。

19 湯たんぽ。

20 高級な「ベンガラ壁」の座敷。


21-24 旧伴家住宅


21 旧伴家住宅 伴庄右衛門本家の住宅。 江戸初期からの商人で屋号は「扇屋」。寛永年間に江戸日本橋に出店して麻布、畳表、蚊帳を扱った。現在の建物は7代目が文政10(1827)年から天保11(1840)年の13年をかけて建てた。明治20年まで営業し、その後は小学校、役場、女学校、幼稚園、図書館に使用した。新町3丁目15。市指定建造物。

22 近江八幡の正月行事「左義長」の山車が飾ってあった。元々は安土城下のお祭りで、織田信長も踊りに参加したという。昔は1月に行われたが、現在は3月14・15日に近い土日曜日に開催。山車はその年の干支に因んでテーマを決め、材料はすべて食品で造られるとか。左義長は県選択無形民俗文化財。

23 2階大広間。

24 豪壮な天井空間。

25 森五郎兵衛邸 初代五郎兵衛は元禄年間に伴伝兵衛家から別家して「森五商店」を設立した。煙草、麻布、呉服、太物などを扱い、大阪本町、江戸日本橋に店を持った。延享5(1745)年に屋号を「近江屋三左衛門」に変更、現在は東京日本橋室町に不動産事業の「近三商事」として継続。建物は非公開。旧西川家住宅の真向かいにある。

26 西川甚五郎邸 「寝具の西川」の家だ。西川家初代の仁右衛門は近江国蒲生郡南津田村の大工の家に生まれて永禄9(1566)年に19歳で蚊帳と生活用品の商いを始め、西川家はこれを創業の年としている。天正11(1583)年、八幡山城の工事が始まると工事の工務監督を務め、天正15(1587)年に蚊帳、生活雑貨を扱う「山形屋」を開業した。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで徳川方の物資調達を請負い、元和元(1615)年に江戸日本橋に進出、その後は京都、大阪など各地に出店して現在の「西川産業」になった。建物は非公開。近江兄弟社の斜め向かいにある。市内大杉町17。

27 ヴォーリズ像 近江八幡名誉市民第一号に選ばれた米国人ヴォーリズが、少女から花束を受け取ろうとしている像。近江兄弟社の真ん前の公園にある。市内では頻繁にヴォーリズの名前に出会った。走行している福祉車両にもヴォーリズの名があった。近江兄弟社は、明治34(1910)年にヴォーリズと吉田悦蔵が「ヴォーリズ合名会社」を設立、昭和9(1934)年に現在の社名に改称した。設立当初からメンソレータムを製造販売していたが、現在は新たにメンタームを開発して販売中。

28 旧ヴォーリズ邸
   (ヴォーリズ記念館)
ヴォーリズの後半生の自宅。昭和6年に幼稚園の教員寄宿舎として着工、途中で自宅に変更した。内部の見学は電話予約が必要。市内慈恩寺町元11。県指定有形文化財。

29 旧八幡郵便局 大正10(1921)年築のヴォーリズ初期の作品。市内仲屋町中8。

30 アンドリュース記念館 明治40(1907)年に建てた旧八幡キリスト教青年会館でヴォーリズ設計の第一号の建物。現在の建物は昭和10(1935)年に12m東に移築、外部デザインを一部変更して平成19(2007)年に保存再生を行った。現在は財団法人「近江兄弟社」の介護予防支援センター。市内為心町中31。国登録有形文化財。


31-34 ハイド記念館


31 ハイド記念館 ヴォーリズと結婚した一柳満喜子が設立した幼稚園の建物。現在は小学校、中学校、高校の近江兄弟社学園。右側の建物がハイド記念館、左が教育会館。ヴォーリズの設計で昭和6(1931)年築。米国のメンソレターム社の創業者、アルバート・アレキサンダー・ハイド氏夫人の寄付で建った。手前の像は一柳満喜子。市内市井町177。

32 左が一柳満喜子、右がヴォーリズの大きな写真。

33 建設当時のままの階段。一番下の段が丸みを帯びているところに特徴があるという。

34 教室の天井。


35-36 教育会館


35 教育会館 近江兄弟社学園の左側の建物が教育会館。講堂兼体育館に使用。

36 建物内部。ハイド記念館、教育会館ともに国登録有形文化財。


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