幕末、徳川譜代の名門、姫路藩酒井家も勤王派を弾圧した。ところが薩摩、長州など外様諸藩が討幕の兵を挙げ、尾張徳川家がこの動きに同調して情勢は一変する。鳥羽、伏見の戦いは錦旗を掲げ、新式銃とアームストロング砲を装備した官軍が優勢で、彦根の井伊家、津の藤堂藩も官軍に味方した。藩主が現役の幕府老中である淀藩でさえ幕軍の受け入れを拒否、幕軍は大坂城にまで敗走した。徳川幕府の威光は地に落ちた。
そして大坂城内大広間で将軍慶喜が「自ら出陣する」ことを宣言した夜、信じがたいことが起きた。慶喜が会津藩の松平容保、桑名藩の松平定敬、備中松山藩主で老中の板倉勝静、姫路藩主の老中、酒井忠惇(ただとし)らとひそかに大坂城を脱出、幕府の軍艦、開陽丸で江戸に逃亡したのである。慶喜は戦の拡大と外国の介入を防ごうとしたと言われ、朝廷に恭順を表明、上野寛永寺で謹慎を続けた。
この頃、姫路城は岡山藩が包囲し、攻撃態勢にあるが、江戸にいる姫路藩主の忠惇と兄の前藩主、忠績(ただしげ、元 幕府大老)はあくまで徳川家への忠誠を誓っていた。事態に窮した国元の重臣らは方針を転換、佐幕派を粛清して朝廷に恭順を表明した。結果、築城400年の国宝姫路城は戦火に会わず、さらに幸運にも先の大戦の空襲をも逃れた。
一方、同族である山形鶴岡の庄内藩酒井家は、鳥羽、伏見の戦いの直前、薩摩藩が江戸市中で浪人を使って火付け、強盗をさせたことに怒り、三田の薩摩藩邸を焼き討ちしていた。もはや、後には引けない。東北諸藩と奥羽越列藩同盟を結成して官軍と戦い、会津若松城の落城で降伏に追い込まれた。重い処分を覚悟したが、西郷隆盛の温情で庄内藩は存続を許される。11代藩主、忠篤(ただずみ)はこれを感謝し、鹿児島の西郷の私学校に藩士を留学させるなど交流を深めたという。ふたつの酒井家は幕末を必死に乗り切ろうとした。
使用カメラ:ニコンD5300, D610. レンズ:FX 24-85mmf/3.5-4.5G, 70-200mmf/4G.
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