Web-ProPhoto.com
2015年8月6日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
Reportage
作品一覧
List


 群馬の館林   New Work
 Tatebayashi City, Gunma Prefecture


2011年に群馬県館林市を取材しながら掲載していなかったので、今回、あらためて撮影に行った。戦国時代の北関東一帯は弱小の在地武士団が割拠、越後の上杉、甲斐の武田、小田原北条氏が戦を繰り返した地域だ。

豊臣秀吉の関東平定で小田原北条氏が滅び、関東に入封した徳川家康は、信頼する徳川四天王の一人、榊原康政を10万石で館林城に、井伊直政を12万石で箕輪城(Web-ProPhoto写真展「長野業政の上州箕輪城」参照)に置いた。四天王の残りの二人、本多忠勝は10万石で上総大多喜城に、酒井忠次はすでに隠居しているので息子の家次に下総臼井3万石を与えた。この家次の子孫がのちに東北の雄藩、庄内藩酒井家になる。

やがて箕輪城の井伊直政は高崎に城を築城してのち彦根に転じる。榊原家も3代で陸奥白河に転封、その後の館林城の藩主は度々交代した。のちの5代将軍、綱吉が藩主の座にあったこともある。そして弘化2(1845)年、出羽山形から秋元志朝(ゆきとも)が6万石で入封して館林藩秋元家が江戸時代最後の藩主家になった。

秋元氏は戦国の頃に深谷上杉氏の家臣から徳川譜代になった大名だ。幕末、戊辰戦争が勃発すると館林藩は官軍に従って関東、東北を転戦した。インターネットを見ると、史料におよそ1,000名以上が出兵、39名が戦死したとの記述がある。

ちなみに館林藩秋元家初代の志朝は周防徳山藩毛利家からの養子、2代の礼朝(ひろとも)は遠州掛川藩太田家からの養子だ。明治になって3代興朝(おきとも)は宇都宮藩家老の戸田忠至の子、4代春朝(はるとも)は周防徳山藩毛利家からの養子である。

最初の藩主、榊原家は陸奥白河、姫路、越後村上、姫路と転封を重ね、最後は越後高田藩主として続き、譜代の藩だが戊辰戦争は官軍に味方した。譜代筆頭の彦根藩井伊家は鳥羽、伏見の戦いの土壇場で官軍に恭順を表明するという苦渋の決断をしている。
使用カメラ:ニコンD7200, D5300. レンズ:DX 10-24mm f/3.5-4.5G, 16-80mm f/2.8-4E, 18-300mm f/3.5-6.3G.
2011年8月撮影分 (14, 27, 33, 34) カメラ:ニコンD700, レンズ:FX 24-120mm f/4G。

各画像をクリックすると拡大表示されます。Click to enlarge.  
各作品の著作権はすべて撮影者に帰属します。
二次使用は固くお断りいたします。






01-10 旧上毛モスリン事務所(第二資料館)
明治35(1902)年に機業の会社を設立。明治43(1910)年に二の丸跡(現在の市役所付近)に建てた洋館を市の資料館として使用。館林市城町2-3。県指定重要文化財。

01 正門

02 外観

03 廊下

04 馬車

05 煉瓦 深谷の「日本煉瓦製造会社」の刻印がある煉瓦。

06 窓

07 階段

08 階段わきの部屋

09 大部屋

10 受電室の壁面 解体移築の際に復元した。


11-13 田山花袋旧宅
武家屋敷のひとつで、昭和56年に市内城町から移築した。小説「田舎教師」を書いた明治の文豪、田山花袋が7歳から14歳までの8年間を過ごした家。田山花袋の父親も戊辰戦争に従軍、無事に帰国したが、西南戦争に警視庁巡査として行き、熊本八代で戦死した。田山花袋本人も日露戦争に従軍記者として赴き、戦争の悲惨さを目の当たりにしている。旧上毛モスリン事務所の隣りにある。市指定史跡。

11 田山花袋の胸像

12 建物全景

13 室内 当時の平均的な一般の武士の住まいで、5室ある。中に立ち入りは出来ない。


14-20 旧秋元家別邸
館林城の一角にあり、明治末に城沼(じょうぬま)に面して建てられた秋元家の別邸。母屋は和風で庭園側は全面ガラス引戸。離れは洋風のペンキ仕上げである。館林市尾曳町8-1。

14 玄関

15 建物全景

16 座敷

17 灯籠と建物

18 離れの洋室

19 秋元春朝投網像 秋元家の13代当主(館林藩4代目)春朝が投網を打つ像で大正8(1919)年の作。作者の毛利教武(のりたけ)は明治17(1884)年生れの高村光雲に師事した彫塑家。

20 館林城出土墓石群 城の発掘で出土した中世の五輪塔、宝篋印塔などを集めた。佐貫氏一族、赤井氏一族などの諸説があり確定しない。秋元家別邸のわきにある。市指定文化財。


21-22 尾曳稲荷神社


21 尾曳(おびき)稲荷神社 室町時代、12代将軍足利義晴の代に赤井照光が尾曳(館林)城を築城、守り神として神社を建立したと伝わる。神社に「館林城絵馬」「明治戊辰戦争磐城進撃絵馬」「明治戊辰戦争凱旋絵馬」が奉納され、市の文化財の指定を受けている。複製が市の第一資料館(図書館内)にあったが、残念なことに撮影は不可だった。館林市尾曳町10-1。

22 尾曳稲荷神社境内の田山花袋歌碑


23-28 鷹匠町「武鷹館(ぶようかん)」
鷹匠が住んでいた町に、旧館林藩の中級武士の家を移築してこの名が付いた。江戸時代後期の建物という。館林市大手町5-10。市指定文化財。

23 長屋門 棟札は不明だが、大正期の建築。江戸時代の長屋門の形式を伝える門。

24 脇の門

25 住宅全景

26 座敷

27 座敷

28 台所

29 田中正造記念館 武鷹館の目の前にあり、NPO法人が運営。足尾鉱毒事件を世に訴えた田中の活動の記録が展示されている。市内に田中の墓もある。館林市大手町6-50。

30 館林城「土橋門」 昭和57(1982)年の発掘調査をもとに復元された。周囲の土塁は江戸時代のもの。市指定史跡。城町。市指定史跡。

31 善導寺「榊原康政の墓」 一番左側の康政に殉死した家臣の墓を含めて5基、一族の墓が並ぶ。左から二番目の大きな宝篋印塔が康政の墓。館林市楠町3692。県指定史跡。

32 雲龍寺「田中正造の墓と救現堂」 案内板によると、寺は足尾鉱毒事件の鉱毒被害地のほぼ中心で、被害民の運動の拠点になった所という。田中は佐野市で73歳で世を去ったが、ゆかりの地に分骨された。この墓は没後20年の昭和8(1933)年に渡良瀬川流域に住む人々の浄財で建てられた。背景の土手は渡良瀬川で、写真右側の救現堂は田中が祀られている。館林市下早川田町1896。市指定史跡。

33 旧二業見番組合事務所 昭和13(1938)年、芸妓屋と料亭を兼ねて建てられた建物。文化財の指定は受けておらず。現在は本町二丁目東区民会館として利用されている。

34 毛塚記念館 江戸末期の商家建築で「分福酒造」の店舗だった。館林市仲町3-15。国登録有形文化財。

35 茂林寺 館林と言えば「茂林寺の分福茶釜」の話を知らない人はいないだろう。境内にユーモラスな狸の像がいくつも並んでいる。館林市堀工町1570。

この写真家の作品一覧へ   Web-ProPhoto.com トップページへ   ▲このページの先頭へ

Copyright © Satoshi Niwa and Web-ProPhoto.com 2015. All rights reserved.