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2015年11月5日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
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 武蔵国カメラ風土記41 川越の仙波東照宮   Semba Toshogu Shrine in Kawagoe City   New Work


駿府で亡くなった家康は一旦は久能山に葬られ、さらに遺言で日光に改葬された。移送の途中、川越喜多院で4日間の法要を営み、天海僧正が家康の木像を祀って造営したのがこの仙波東照宮で仙波は地名。その故から日光東照宮、静岡の久能山東照宮と並んで日本三大東照宮と呼んでいるという。

創建当初の建物は寛永15(1638)年の川越の大火で焼け、この時、城下の3分の1が焼失したと言われている。そこで3代家光が時の川越藩主、堀田正盛を造営奉行に任じて寛永17(1640)年に再建されたのが現在の社殿だ。正盛は春日局の義理の甥で、幼少から家光に仕えて老中に出世したエリート官僚、その室は酒井忠勝の娘である。

造営に着手した正盛はそのすぐに川越から松本、さらに下総佐倉に転封して佐倉11万石の堀田家初代になった。ところが、慶安4(1651)年に家光が48歳で亡くなると、側近の阿部重次らと共に殉死する。正盛も44歳の若さだった。以後、会津の保科正之らの提言で殉死は禁じられるようになる。

通常、本殿は立ち入り禁止だが、新聞で11月2日から23日まで、特別に境内を一般公開すると知り、撮影に出かけた。だが、残念ながら、やはり、本殿内の家康の木像は非公開で、拝殿内は拝観出来たが、内部の撮影は不可だった。

ちなみに、2代秀忠が初めに日光に建てた東照宮の社殿は、秀忠の死後、家光が群馬県太田市世良田に移築した(Web-ProPhoto写真展「徳川家発祥の地」参照)。現在の絢爛豪華な日光東照宮は家光が新たに建て直した社殿だ。

所在地:350-0036 埼玉県川越市小仙波町1-21-1
使用カメラ:ニコンD7200, D750. レンズ:AF-S 24-85mm f/3.5-4.5G ED VR, AF-S 80-400mm f/4.5-5.6G ED VR.

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各作品の著作権はすべて撮影者に帰属します。
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01 石の鳥居

02 堀田正盛の名 正盛の官職名は加賀守で「寛永15年9月17日堀田加賀守従四位下藤原正盛」の銘文がある。

03 葵の紋

04 拝殿前のガイド

05 狛犬 ここでは「天犬(あまいぬ)」と呼び、低い台座に鎮座している。説明に「明暦2年(1656)老中松平信綱が江戸城二の丸東照宮廃社の建物と一緒に川越に運ばせた。献納者は鉄砲百人組頭根来出雲守」とあるから、出自は紀州根来寺の鉄砲衆か。

06 石灯籠と拝殿 拝殿内に戦国時代の武将、荒木村重の遺児で絵師になった岩佐又兵衛の筆になる「三十六歌仙額」が飾られているが、これはレプリカとか。残念ながら拝殿内も撮影は不可だった。

07 石灯籠 拝殿と本殿前に計26基、歴代の川越藩主が奉納。

08 秋元涼朝(すけとも)の名 秋元家は元は深谷上杉家の家臣。主家の没落で家康に仕え、働きが認められ新参ではあるが大名に出世した家柄。涼朝は10代将軍家治の頃、幕府の重職を歴任、奏者番、寺社奉行、若年寄、老中を勤め、川越藩から出羽山形藩に転封した。秋元家は幕末、館林藩6万石で明治維新を迎え、戊辰戦争では官軍に加わった。Web-ProPhoto写真展「群馬の館林」参照。


09-12 拝殿の彫刻


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13 葵の紋

14 本殿外観 拝殿、本殿、瑞垣(みずがき)、唐門ともに国指定建造物。

15 松平信綱奉納の石灯籠 信綱は3代家光の時、島原の乱の鎮圧に功あり、川越藩6万石の松平(大河内)家初代になった。多くの歴史小説に登場する人物で「知恵伊豆」の異名がある。堀田正盛が松本に転封した後の川越の大火の復興に尽力、この時の町割が、現在の川越市の町並みの基本という。信綱を含めた大河内家の代々の墓所は埼玉県新座市野火止の「平林寺」にある。

16 本殿の唐門

17 本殿脇の瑞垣。


18-19 本殿


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20-30 本殿の彫刻と装飾
相当に傷みが激しい。

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