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2016年12月26日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
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 東京・雑司が谷旧宣教師館   New Work
 Zoshigaya Missionary House and Museum, Tokyo



このWeb-ProPhoto写真展の第1回「窓」で取材した東京・雑司が谷旧宣教師館に再び行った。場所は雑司が谷の住宅街のど真ん中、前回はJR池袋駅からタクシーで行ったと記憶しているが、今回は地下鉄有楽町線護国寺駅を下車、徒歩10分程で着いた。

アメリカ人宣教師ジョン・ムーディー・マッケーレブが建てた木造2階建、築100年を超える洋館で、説明によると19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特徴を持つ。外観は、純白の板壁に、グリーンの窓枠と大きなガラス窓が解放感を演出、青空にとても似合う建物だ。室内には煙突1本で3部屋の暖炉を作るなどの工夫がある。

マッケーレブが来日したのは明治25(1892)年4月。前年の5月に日本中を震撼させた大事件が起きている。滋賀県大津市で、ロシアの皇太子ニコライ(後のニコライ2世皇帝)の行列を警護していた巡査、津田三蔵が、皇太子に突然、サーベルで斬り付けた事件である。日本中が大国ロシアの報復を予想して怯えていた頃の来日だった。

明治27(1894)年には日清戦争が起きた。日本は清国に勝利はしたものの、ロシア・ドイツ・フランスの三国による「三国干渉」を招く。列強の圧力に、多くの日本人が反発する中での布教活動だ。マッケーレブは初め、築地の外国人居留地に住んでいたとか。

そして明治40(1907)年、ここ雑司が谷に全寮制の「雑司ヶ谷学院」と、今に残るこの洋館を建てた。親交があった徳富蘆花などの文人も出入りしたらしいが、残念ながら、雑司ヶ谷学院の建物は大正12(1923)年の関東大震災で破損、閉鎖されている。

マッケーレブは太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年まで、この洋館を拠点に34年間、布教を続けて帰国、来日して通算で50年間、人生の大半を日本で過ごした。強い意志の持主だったと言わねばならない。欧米に反感をいだく日本人の嫌がらせもあったに違いないし、帰国した故国、アメリカで、日本軍による真珠湾攻撃のニュースを聞き、さぞや落胆した事だろう。

洋館は民間企業の所有になっていたが、昭和57(1982)年に豊島区が取得、今ではコンサートや、講演などにも使用されている。東京都豊島区雑司が谷1-25-5(都指定有形文化財)。
東京都豊島区Website, 雑司が谷旧宣教使館のページ
http://www.city.toshima.lg.jp/129/bunka/bunka/shiryokan/kyusenkyoshikan/004412.html

使用カメラ:ニコンD7200, D500. レンズ:DX AF-S 10-24mm f/3.5-4.5G ED, AF-S 16-80mm f/2.8-4E ED VR, AF-S 55-200mm f/4-5.6G ED VR II.


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