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2017年5月22日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
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 戦国時代の古民家、旧茂木家住宅   New Work
 Former Residence of The Motekis, Tomioka City, Gunma, Japan



群馬県富岡市の国指定建造物「旧茂木家住宅」は、「大永7(1527)年」の墨書きと古文書がある。歴史年表を見ると、武田信玄の誕生が大永元(1521)年、織田信長が天文3(1534)年、徳川家康が天文11(1543)年だから、戦国時代初めの建物という事になる。

茂木(もてき)氏について市の説明は「先祖は戦国時代の大山城主で初代は野宮氏、29代目から茂木姓を名乗り、江戸時代は名主役」とあるだけだから、詳しい事はわからない。ただ、建てられた時代と場所を考えれば、旧小幡町(現在の甘楽郡甘楽町)の山城、国峰城(町指定史跡)の小幡氏との関係を想像していい。

国峰城主の小幡氏は、武蔵七党の児玉党から出た武士団で、戦国時代に山内上杉、武田、そして小田原北条氏に仕えた。特に小幡信貞の名が、赤備えの騎馬隊と共に知られ、武田信玄の旗下で常に最前線にあった。茂木氏の先祖もこの信貞軍の中にいたかも知れない。だが、勝頼の時「長篠の戦い」で、武田と織田、徳川の連合軍が激突、織田の鉄砲隊の前に武田の騎馬隊が総崩れになり、武田は衰退の一歩を辿った。

数年後、遠江国の「高天神城」をも失った勝頼は甲斐の天目山で自刃、武田軍が滅亡したため、信貞は小田原北条氏の旗下に入った。だが、やがて秀吉の関東平定で北条氏も秀吉の軍に屈服してしまう。信貞は国峰城に籠城したものの、前田利家の大軍に敗れ、武田時代の同僚である信州の真田家に行き、そこで余生を送った。

そして江戸時代の末の安政5(1858)年、旧小幡町「宝積寺」の小幡家墓所に、松代藩士の小幡龍蟄が訪れ、先祖の供養塔を建立(町指定史跡)している。

「茂木家住宅」は、元は富岡市内の神農原(かのはら)にあった。昭和45年に国指定建造物、昭和52年に宮崎公園内に解体移築した。座敷の写真を撮りながら、茂木家の先祖と小幡信貞が、この囲炉裏端で酒を酌み交わし、生き残り作戦を話し合ったかも知れないと想像を膨らました。(群馬県富岡市宮崎329番地、宮崎公園内)
富岡市観光ホームページ「しるくるとみおか」旧茂木家住宅のページ
http://www.tomioka-silk.jp/spot/sightseeing/detail/old-Moteki-house-Miyazaki-park.html
丹羽 諭 Web-ProPhoto写真展「上州小幡の城下町」
http://sniwa.web-prophoto.com/045obata.html

使用カメラ:ニコン D750, D500, D7200. レンズ:AF-S DX 16-80mm f2.8-4E ED VR, AF-S 24-85mm f/3.5-4.5G ED VR, AF-S DX 55-200mm f/4-5.6G ED VR II, AF-P DX 70-300mm f/4.5-6.3G ED VR.


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01-26 「旧茂木家住宅」


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 19 大永7(1527)年の墨書き

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27 赤備えの鎧 「甘楽町歴史民俗資料館」所蔵。(甘楽町大字小幡852-1)

28 武田24将の絵 「甘楽町歴史民俗資料館」所蔵。右下の赤備えの鎧を着た人物が小幡信貞だろう。(小幡上総守)

29 甘楽町「国峰城外濠跡」 写真後方の山に城跡がある。この位置が外濠だから、かなり大きく縄張りされた城だ。

30 小幡一族墓所 甘楽町の名刹、曹洞宗「宝積寺」境内の本堂裏手にある。墓石の文字が摩耗してしまっているが、お寺の案内に「宝徳2(1450)年に小幡実高が中興開基した」とあるから、室町時代の中頃にはすでに小幡一族がこの土地を治めていた。(甘楽町轟774)

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