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2017年9月26日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
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 信州上田城   Ueda Castle in Nagano Prefecture   New Work



天正13(1585)年、徳川勢約7,000が、真田昌幸の兵2,000が守る上田城を攻め、退却したのが「第1次上田合戦」。15年後の慶長5(1600)年、石田三成の挙兵で東軍が東海道と中山道の二手に分けて西に向かう。中山道を往く秀忠勢38,000の大軍が上田城を攻めて落とせず、これを「第2次上田合戦」と呼ぶ。

この秀忠勢は徳川の主力部隊で、本多正信、酒井家次、榊原康政、牧野康成ら歴戦の家臣が補佐していた。にもかかわらず昌幸に翻弄され時間ばかりが経過、西軍との決戦に間に合わなかった。戦力不足は豊臣恩顧の大名らの離反を招きかねず、家康は秀忠に激怒したと伝えられる。

それでも関ヶ原合戦は東軍が勝利した。家康は、東軍に付いた昌幸の長男、信之の懇願で、昌幸、幸村父子の一命を助けたものの、二人を紀州久度山に幽閉する。城は徹底的に破却した上で上田領の支配は信之に任せた。昌幸は11年後、九度山で世を去り、慶長20(1615)年の「大坂夏の陣」で豊臣家が滅亡して幸村も戦死した。

徳川の世が定まると、信之は秀忠に上田城再建の許可を願い出るが許されなかった。それどころか、秀忠は元和8(1622)年、信之に松代への転封を命じ、真田を父祖伝来の土地から引き剥がした。そして上田城に小諸から仙石秀久、忠政親子を入れた。

仙石家は3代、およそ84年間上田を治め、7基の櫓と2基の櫓門を建て、寛永5(1628)年、忠政が病没して城普請は中断された。やがて宝永3(1706)年、5代将軍綱吉の時、仙石家4代政明が但馬出石に転封を命じられ、入れ替わりに出石から上田に譜代の松平家(藤井松平)が入った。

この藤井松平家は幕末まで7代166年間続く。6代藩主の忠固(ただかた)は、姫路藩酒井家から養子に入り、2度、老中を勤めている。攘夷を主張する水戸斉昭と対立したが、日米和親条約と日米修好通商条約を成立させた一人。

ちなみに仙石家は天保年間に「仙石騒動」と呼ばれるお家騒動が起きた。結果、5万8000石から3万石に減封処分を受け、芝居や講談で語り継がれる事になった。

参考サイト:上田城の歴史 https://www.city.ueda.nagano.jp/shogaku/bunka/tanoshimu/bunka/rekishi/index.html

使用カメラ:ニコン D750, D500, D7500. レンズ:AF-S DX 16-80mm f/2.8-4E ED VR, AF-S 18-35mm f/3.5-4.5G ED, AF-S 24-85mm f3.5-4.5G ED VR, AF-S DX 55-200mm f/4-5.6G ED VR II, AF-P 70-300mm4.5~6.3G, AF-P 70-300mm f/4.5-5.6E ED VR.


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01 上田駅前「真田幸村像」 上田市立博物館の説明では、本人の署名は「真田信繁」だが、「幸村」の呼名が一般的。この像も名は幸村。


02-24 上田城(国指定史跡)
上田市二の丸6263番地イ。

 02 上田城「東虎口櫓門」 平成6(1994)年の復元。

 03 櫓門の「真田石」 天正11(1583)年、上田築城時に真田昌幸が据えた巨石。

 04 「櫓」 櫓門を挟んで建つ南北の「櫓」は、明治維新で民間に払い下げられたが、昭和18(1943)年に買い戻した。昭和24(1949)年に南櫓、北櫓として再建。長野県県宝。

 05 「櫓」室内

 06 「梁」

 07 隅櫓「鯱瓦」

 08 「元禄年間(仙石氏時代)の
     城下絵図」

 09 「狭間」 ここから矢、鉄砲を撃つ。

 10 「駕籠」 元和6(1620)年、信之の妻の小松姫(48歳)が、江戸藩邸から療養のために草津温泉に向かう途中、鴻巣宿で病のために死去。その遺骸を上田まで運んだと伝えられる駕籠。墓は上田市内の芳泉寺と、群馬県沼田市の正覚寺、埼玉県鴻巣市の勝願寺にもある。

 11 「鎧の模造品」

 12 「真田神社」

 13 「模造の六文銭の冑」

 14 「土塁」

 15 「真田井戸」 城外に繋がっているという説がある。

 16 二の丸「煙硝蔵」 仙石氏時代の貞享3(1686)年に新設された蔵。

 17 「西櫓」 寛永年間に仙石忠政が建てた「櫓」。江戸初期の「櫓」として歴史的価値が高い。南櫓、北櫓と共に長野県宝。

 18 駐車場から見た「西櫓」

 19 「尼ヶ淵の崖」 城は千曲川の分流に面した崖の上に建っている。崖は崩れやすく、洪水の度に浸食されるため、享保18(1733)年から松平氏が石垣の工事をしたが、完成しなかった。今、川の流れが変わり、河原は駐車場と緑地帯。

 20 「南櫓」 駐車場から見た南櫓。長野県宝。

 21 「記念撮影の看板」

 22 「石垣と排水口」

 23 「けやき並木」

 24 二の丸土塁下
    「けやき並木遊歩道」
堀跡に昭和2(1927)年11月「上田温泉電軌北東線」が開通して電車が走っていたが、昭和47(1972)年に廃止され、今は遊歩道。

25 上田藩主居館跡「表門」 真田、仙石、松平氏と続いた藩主の居館跡の門。現在は長野県上田高校。市指定建造物。上田市大手1-4-32。

26 表門「松平家五三桐の家紋」


27-29 北国街道「柳町」の町並み
江戸末期から明治にかけての家屋が並ぶ。柳の木が多かったのでこの名がある。参勤交代や、佐渡金山奉行の行列も通った。上田市4丁目 柳町通り。

 27 「造り酒屋」

 28 甲州出身「味噌屋」

 29 「そば屋」


30-33 芳泉寺
信之の妻、小松姫の墓と、仙石家の霊廟がある。埼玉県鴻巣市の勝願寺にも小松姫と秀久の墓がある。常盤城3-7-48。

 30 「小松姫の墓」 10を参照。左の扉に六文銭。右の扉に葵の紋。市指定史跡。

 31 「仙石家霊廟」 左が仙石秀久、右が忠政の子で仙石家三代藩主、政俊の廟。市指定史跡。

 32 「仙石秀久の墓石」

 33 仙石家の家紋「永楽通寶」


34-41 真田氏発祥の郷
上田市の郊外、真田町が発祥の地。

 34 「真田氏発祥の郷」の碑 上田市真田町本原の真田氏記念公園内。作家の故・池波正太郎の揮毫。

 35 長国寺「真田昌幸と両親の墓」 真中が昌幸の父、幸綱(又は幸隆)の墓。真田氏は古くからの信濃の豪族、海野氏の一族と言う。幸綱は甲斐の武田信玄に仕えて信濃先方衆として活躍、真田氏隆盛の基を築いた。左端が幸綱の妻、右橋が昌幸の墓。市指定史跡。上田市真田町長4646。

 36 真田氏本城跡「道祖神」 城は、幸綱の代から戦時に使われた山城。平時は麓の居館にいた。昌幸が上田城を築くまでの真田一族の本拠。規模は大きく、上田市街が一望出来る。市指定史跡。上田市真田町長5029-3。

 37 「石仏」

 38 本郭「土塁跡」

 39 「本郭付近」

 40 「砥石城方面を望む」

 41 「御屋敷公園」 真田本城跡の麓で、真田氏が上田城を築城する前の屋敷跡。市指定史跡。上田市真田町本原2984-1。


42-44 砥石城跡
東太郎山の尾根に枡形城、砥石城、米山城と続く中世の山城。築城がいつ頃かは不明。葛城城主の村上義清の配下にあった天文16(1547)年、武田信玄が攻めて大敗した。武田方の死者は1,000名を超えたと言い、これを「砥石崩れ」と呼ぶ。村上義清は信玄と死闘を繰り返した北信濃の豪族で、その後、信玄の信濃先方衆、真田幸綱が調略を用いて城を奪った。後に子の昌幸が上田城を築城して徳川と戦った2度の上田合戦でも要の位置にあった。上田市上野。県史跡。

 42 「櫓門」

 43 「砥石城跡」 櫓門から山道を休みながら登り、およそ30分を要した。相当にきつい坂道と階段が続くので、登るにはそれなりの覚悟が必要。

 44 「眼下に上田市街」


45-50 八日堂「信濃国分寺」
奈良時代に聖武天皇の勅願で建立された国分寺は兵火で焼け、約300m北の現在地に再建された。地域を代表する大寺院で、三重の塔は室町時代中期の建立で国指定重要文化財。薬師如来を祀る本堂(八日堂、薬師堂とも呼ぶ)は、当時の藩主、藤井松平家の庇護の下、文政12(1829)年から万延元(1860)年まで、広く浄財を集めて建立された。余談だが、万延元年は幕末、井伊大老が桜田門で暗殺された年だ。長野県宝の天台宗寺院。上田市国分1049。

 45 「本堂」

 46 本堂内「大提灯」

 47 「ちいさな木像」 誰の木像か不明とか。もしかすると比叡山延暦寺を開いた伝教大師最澄では?

 48 「三重の塔」

 49 「鐘楼」 格天井の絵。

 50 奈良時代
   「国分寺・国分尼寺跡」
現在の正式名称は「信濃国分寺史跡公園」。発掘された礎石が当時の伽藍の様子を彷彿とさせる。国指定史跡。上田市大字国分 1125。

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