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2013年3月26日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
Reportage
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 新田源氏   Nitta Genji   First appearance on the Web: November 09, 2011


10月に「徳川家発祥の地」を掲載したが、この取材で、群馬県太田市には八幡太郎義家の末裔である新田源氏に関わる史跡があちこちにあることを知った。「平家物語」や「太平記」などで語られた人物や足跡、あるいは伝説が史跡として残っていて史実を証明している。これは歴史好きにはたまらない魅力がある。

また、史跡の発掘と保存、さらに言い伝えの調査がよく行われていて現地の案内板も丁寧で分かりやすかった。伝承は事実でない場合もあるが、そのあたりもきちんと説明がされている。もちろん全部取材することは出来なかったし、フリーのカメラマンには秘蔵の宝物などは撮影出来なかったが概略はつかめた。

史跡の説明や年号などは市のHPや、神社、仏閣などの案内板の内容に従った。

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01 二体地蔵塚 古墳時代後期の円墳跡にある。鎌倉末期、新田義重から8代、当時の新田源氏棟梁の新田義貞が、莫大な税を取り立てに来た幕府の北条高時の使者、黒沼彦四郎の首を切り、さらしたと伝わる。後に土地の人々が地蔵を祀って菩提を弔った。太田市世良田町1578-1。

02 明王院「源義助板碑」 真言宗。明王院は寺伝では康平4年(1061) 八幡太郎義家の父親の源頼義が建立。安養寺殿と呼ばれた義貞の居館のひとつとされる。義貞挙兵の時、一族に、この寺の不動明王が一夜にして挙兵を触れて回ったとの言い伝えから「新田触不動」の名がある。この板碑は義貞の弟、別名脇屋義助の菩提を弔うために建てられた。太田市安養寺町200-1。

03 明王院「千体不動尊供養塔」 江戸時代の建立でピラミッド型の千体不動尊。

04 明王院「千体不動尊供養塔」

05 明王院「中黒」の家紋 新田氏の家紋「一つ引両」。足利氏は二本線の「二つ引両」である。

06 花見塚公園「勾当内侍の墓」 新田義貞が妻の勾当内侍のために作ったとされる屋敷跡。現在はツツジの公園。義貞の死後、ここで義貞の菩提を弔ったとされる。右が勾当内侍、左が義貞の首塚と伝わる。太田市武蔵島町87-3。

07 義国神社 八幡太郎義家の子(三男とも四男とも言われるが定かでない)源義国を祀る。足利が本拠地だが、晩年はすぐそばの青蓮寺のあたりに住んでいたと推測される。この義国嫡男が義重で、新田源氏の祖となり、二男の義康が足利源氏の祖として二流に別れたため、後に本流をめぐって両者に確執が生じたと考えられている。ついでながら、源氏本宗家嫡流は鎌倉幕府を開いた頼朝から実朝と続いて滅んだ。太田市岩松町甲503。

08 義国供養塔 義国神社の裏側に供養塔がある。

09 清泉寺「悪源太義平墓」 平家の時代の源氏本宗家嫡流である源義朝の長男で頼朝、義経らの異母兄にあたる。悪は強いという意味。源氏内部の争いから埼玉の嵐山で叔父の源義賢(この義賢の子が木曽義仲)を討ち、悪源太と呼ばれる。後、平治の乱で平家に破れ、父、義朝は尾張で家臣に殺され、子の義平は京の河原で平家に首を討たれるが、婚約者の新田義重の娘が首を持ち帰って理葬したと伝わる。太田市世良田町1490。

10 台源氏館跡「義貞誕生の碑」 正安3年(1300年)頃、義貞はここにあった館で誕生したとされ、青年期は程近い反町館にいたと思われている。円福寺から500~600メートルの所にある。太田市由良。

11 円福寺「新田氏累代の墓」 古義真言宗。寺は新田氏四代政義が開基。この政義から七代に至る、政氏、基氏、朝氏の各位牌が残り、新田氏累代の墓がある。墓のひとつは義貞の祖父、基氏の法名が確認出来る。新田本宗家の氏寺だったと考えられる。太田市別所町594。

12 生品神社 元弘3年(1333年)5月8日、後醍醐天皇から北条氏追討の綸旨を受けて、義貞は反町館からほど近いこの神社境内で挙兵し、弟の脇屋義助を始めとしておよそ150騎が集ったとされる。太田市新田市野井町。

13 生品神社

14 生品神社「神代木」 旗挙げの時、大中黒の軍旗をこの木にかかげた。

15 「駒つなぎの松」 義貞が挙兵し鎌倉に向って利根川を渡る時、川原のここの松に馬を繋いだという言伝えがある。太田市亀岡町。

16 金龍寺「由良氏五輪塔と
   新田義貞供養塔」
曹洞宗。寺伝では義貞が元享元年(1321)建立とある。室町の頃に、下克上で新田一族の横瀬氏(後に由良氏)が、金山城主の岩松氏を退け、由良一族の菩提寺とする。天正18年(1590)由良氏は常陸牛久に転封、寺も牛久に移ったが、後、江戸時代に館林城主榊原氏が再興。義貞供養塔は寛永14年(1637)に造立されたもの。太田市金山町40-1。

17 江田館跡 新田(徳川)義季の四世の子孫で、鎌倉極楽寺坂の戦いで大将を勤めた江田行義の館跡と伝わる。中世の館跡の遺構がよく残っている。東西約八十メートル、南北約百メートルの堀と土塁の保存状態は良好。太田市新田上江田町925。

18 江田館跡

19 反町館跡 現在も堀があって、江田館跡と同様、往時を偲ぶ事が出来る。新田本宗家の館だったと考えられている。今は反町薬師(高野山真言宗照明寺)がある。太田市新田反町町896。

20 反町館土塁 遺構がよく残っている。

21 岩松旧跡 義国神社の前にあって新田一族の岩松家の屋敷跡と伝わる。江戸時代、徳川家は自らを世良田徳川氏の末裔とし、なぜか岩松家を冷遇するが、明治維新で岩松家は官軍に属したため、新田氏嫡流と認められて男爵となった。太田市岩松町。

22 岩松尚純(ひさずみ)夫妻墓 金山城3代目城主。連歌の名手として名を残している。義国神社のすぐ近く、尚純萩公園内にある。太田市岩松町661-2。

23 岩松八幡宮 新田義重の創建と伝わる。南北朝以後新田氏の実権が岩松氏に移って岩松八幡宮と呼ばれる。太田市岩松町251-1。

24 新田金山城 中世の山城。岩松家純が室町中期の文明元年(1469年頃)に築城。その後一族の横瀬氏(後、由良氏)が支配する。戦国期、天正12年(1584)には小田原北条氏に降るが、天正18年(1590)に小田原落城と共に廃城。その後江戸幕府直轄地として放置される。昭和9年(1934)に国史跡となって発掘復元。戦国期の山城の特徴をよく残す、関東では貴重な城跡だ。天守曲輪跡には八幡宮があって新田義貞が祭られている。太田市金山町40。

25 金山城「大手通路」 石垣が整然と復元され、当時の築城技術のレベルの高さを実感出来る。

26 金山城「三の丸下」

27 金山城「月の池」 湧水を利用した池が二ヶ所あるが現在も涸れずに残るりっぱな池だ。籠城の時、山城にとってもっとも重要なものである。

28 復元されたカマド

29 金山の大けやき 金山城の新田神社参道にあって推定樹齢800年と伝えられる。

30 新田神社 本丸天守曲輪跡にあって義貞を祀る。

31 世良田館跡 徳川家始祖の新田(徳川)義季が開山の長楽寺に隣接し、「堀」の跡があって、義季の子の一人、頼氏が世良田姓を名乗るが、その一族の館跡と推測されている。現在は歴史公園。太田市世良田町3122。

32 冠稲荷神社拝殿「彫刻」 平安時代の天治2年(1125)源義国が一族の守り神として創建。後に義貞が鎌倉幕府討伐の軍を挙げる時、戦勝祈願をしたとされる。現在の拝殿は寛政11年(1799)の再建。彫刻が素晴らしい。太田市細谷町1。

33 冠稲荷神社拝殿「彫刻」

34 冠稲荷神社本殿「彫刻」 享保7年の(1722)再建。

35 冠稲荷神社内聖天宮「彫刻」 古墳の上に建つ。江戸の安政4年(1857)の建築で一見の価値あり。

36 曹源寺「さざえ堂」 曹洞宗。文治3年(1187)新田義重が建立。このお堂は寛政5年(1792)の建造で、外観は2階建てだが、内部は3階建てで堂内を一巡出来るようになっているところから「さざえ堂」の名がある。埼玉児玉町の成身院と会津若松の旧正宗寺と合わせ日本三大さざえ堂と呼ばれる。太田市東今泉町165。

37 さざえ堂「観世音菩薩」 秩父、坂東、西国の百札所の観世音菩薩を模した観音像が安置されている。

38 大光院「吉祥門」 浄土宗。寺は徳川家康が新田義重を弔うために慶長18年(1613)に建立。別名「子育て呑竜」として現在もにぎわう。この門は元和元年(1615)大阪城が落城した時上棟したので「吉祥門」の名が付いたと伝わる。軒丸瓦に葵の紋があって家康がいかに義重を重要視していたかが想像出来る。太田市金山町37-8。

39 大光院築地塀瓦 内庭の築地塀の瓦にも葵の紋。

40 矢太神沼湧水地 新田一族の新田荘開発の礎となった湧水地。現在も水量が豊かで、現在周辺は「ホタルの里公園」となっている。太田市新田町大根244。

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