01 大蔵館跡 |
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平安末期の源義賢の館跡。義賢は源為義の次男、頼朝の叔父にあたる。現状は大蔵神社がある。嵐山町大蔵522。
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02 源義賢墓 |
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この頃の源氏一族は身内同士で争いが絶えず、久寿2年(1155)義賢は兄、義朝の嫡男である甥の悪源太義平に討たれる。子の駒王丸(後の木曽義仲)は家人の斉藤実盛の手で木曽に逃れた。この五輪塔は県内最古。嵐山町大蔵66の個人宅にある。県指定史跡。
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03 鎌形八幡神社「木曽義仲産湯清水」 |
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大蔵館に近く、駒王丸の産湯の井戸と伝わる。嵐山町鎌形1993。
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04 斉藤氏館跡「実盛塚」 |
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斉藤実盛は源氏に属するが、平治の乱後は平宗盛の家人になってこの地で別当職となった。やがて頼朝が挙兵するが、平家に恩を感じる実盛はあろうことか北陸でかつての主の子、木曽義仲と戦うことになる。その時73歳の高齢だったが、白髪を黒く染め、大将の鎧を着て戦って首を討たれたという。ここに館があったので、子孫が供養のため板碑を建てた。熊谷市西野444。
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05-10 菅谷館跡
鎌倉街道の要衝で、鎌倉幕府御家人の畠山重忠が館を建て、戦国期に現在の形になったという平城。形状がきわめてよく残っている。この嵐山町の菅谷館と杉山城、吉見町の松山城、ときがわ町、嵐山町、小川町にまたがる小倉城とが一緒に「比企城館跡群」として国指定史跡。敷地内に「埼玉県立嵐山史跡の博物館」がある。嵐山町菅谷。 |
05 菅谷館跡「本郭」 |
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本丸のこと。多くの郭、土塁、空堀があって、その大きさは近世の城に匹敵する。
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06 菅谷館跡「空堀」 |
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館跡を囲んでぐるりと空堀と水堀がある。
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07 菅谷館跡「虎口」 |
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館や砦、城の入口のこと。防御上の理由から土塁でわざと狭くしてある。
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08 菅谷神社「火縄銃実演」 |
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11月6日に戦国時代を彷彿とする「嵐山時代まつり」があった。菅谷館跡を出発した武者行列は近くの菅谷神社に向かいそこで「出陣式」。火縄銃の実演の後、菅谷館にもどる。
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09 菅谷館跡「火縄銃実演」 |
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ここでも実演を披露。
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10 菅谷館跡「流鏑馬」 |
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小雨のなかで流鏑馬があった。鎧を着て行うのはめずらしい。
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11 常光院「中条判官藤原常光墓」 |
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平安末期、藤原常光が国司として赴任、中条氏を名乗る。3代家長が頼朝に仕えて一の谷合戦や奥州合戦にも参陣、鎌倉幕府評定衆となる。家長は常光のために館の一部を寺とした。中世の館の遺構がよく残る。熊谷市上中条1160。県指定史跡。
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12 岡部六弥太墓 |
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武蔵七党の一つ猪俣党に属し、一の谷合戦で平忠度を討ったことで知られる。奥州合戦や頼朝の京都上洛にも加わった。鎌倉時代の五輪塔が6基並ぶが手前から2つ目が六弥太の墓。深谷市(旧岡部町)普済寺そば。県指定史跡。
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13 稲荷神社 |
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岡部六弥太墓近くの畑の中に小さな古墳がある。このあたり一帯が普済寺を含めて岡部一族の館跡だったと考えられ、稲荷神社が祀られている。
Street View で見る
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14 畠山重忠墓 |
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畠山重忠公史跡公園内に五輪塔がある。畠山氏旧跡で、重忠はここで生まれたという。鎌倉幕府創業の功臣だが、菅谷館から鎌倉に向う途中、横浜二俣川で北条義時に討たれた。深谷市(旧川本町)畠山。県指定史跡。
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15-19 松山城跡
吉見町の古代の墓「吉見百穴」のそばにある。室町の頃の築城で、後北条氏の時、現在の形になったと考えられる。自然の地形を活かした典型的な平山城で、ここで越後上杉氏と後北条氏はたびたび戦った。徳川時代になって一時松平家広が城主となるが、慶長6年(1601)に廃城。城への登りは短いが急傾斜でかなりきつい。吉見町南吉見。 |
15 松山城跡「本丸」 |
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本丸跡に碑が建つ。
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16 松山城跡「空堀」 |
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高低差があって複雑に入り組んでいる。
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17 松山城跡「平場」 |
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郭内の平らな場所。
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18 松山城跡「市野川」 |
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昔、城の周囲は市野川が作った低湿地帯で、天然の要害だった。
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19 松山城跡「東松山市街」 |
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市街がよく見渡せる。城としては絶好の立地であったろう。
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20 岩室観音 |
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松山城の麓にあって現在の建物は江戸時代寛文年間の再建。巌窟の中に88体の石仏がある。
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21-25 杉山城跡
嵐山町の積善寺裏山にある。雑木林に埋もれていたが、平成になってから調査が進んだ。室町から戦国期にかけての平山城で、中世城郭の原型がそっくりそのまま残る貴重な城跡。案内板に松山城、鉢形城を結ぶ重要な軍事拠点であったとある。私有地だが見学は可能。嵐山町杉山雁城654。 |
21 杉山城跡「出郭」 |
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大手門前の広場。コスモスが咲き乱れていた。
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22 杉山城跡「馬出郭」付近 |
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空堀に囲まれた大手から郭内に入る入口部分。
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23 杉山城跡「虎口」 |
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虎口の形状がよく残る。
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24 杉山城跡 |
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見通しがいい。鎌倉街道を監視する位置にある。
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25 杉山城跡 |
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麓から城を望む。
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26-28 小倉城跡
元亀天正の頃の後北条氏家臣遠山氏の居城。断崖に囲まれた堅固な山城で、松山城、杉山城などと比べ石積みが多用されている。天正18年(1590)の秀吉の小田原攻めで松山城とともに落城、廃城となった。ときがわ町田黒地区を中心に、嵐山町、小川町にまたがる。 |
26 小倉城跡「虎口」 |
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枡形の虎口に石積みの跡が見える。
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27 小倉城跡「石碑」 |
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28 小倉城跡 「北虎口」付近 |
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29 国済寺「上杉憲英墓」 |
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憲英(のりふさ)は室町初期の関東管領山内上杉憲顕の子。この地に土着し奥州管領となる。深谷上杉家の祖で館に国済寺を開基。墓前には一族の墓も並ぶ。深谷市国済寺521。県指定旧跡。
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30 国済寺「上杉家紋」 |
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本堂の扉に上杉家の竹と2羽の雀の家紋がある。
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31 深谷城外「濠跡」 |
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城は室町中期に深谷上杉房憲が築城。江戸期には松平、酒井氏が居城するが、寛永11年に廃城。城址公園に隣接する富士浅間神社の周囲に濠跡が残る。深谷市本住町。市指定文化財。
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32-38 鉢形城跡
文明8年(1476)関東管領山内上杉氏家臣の長尾景春が築城。後に北条氏邦が整備拡張し、関東屈指の名城となる。荒川の断崖絶壁上に立置し、郭内を深沢川が流れる天然の要害。戦国期にはたびたびの歴史に残る攻防があった。秀吉の小田原攻めで前田利家、上杉景勝らが攻めて落城し、江戸期には代官が統治した。「鉢形城歴史館」がある。寄居町大字鉢形。国指定史跡。 |
32 鉢形城 |
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復元された門。
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33 鉢形城「石垣」 |
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江戸期の直線の石垣と違い、段々状に構築復元されている。
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34 鉢形城「柵」 |
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このような柵があったと考えられ、その向こうは荒川の断崖絶壁。
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35 鉢形城「柵」 |
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36 鉢形城「柵」 |
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37 鉢形城「土塁」 |
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大規模な土塁がある。
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38 鉢形城「曲輪跡」 |
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39-40 別府城跡
平安末期から成田氏がここ東別府と西別府に分かれてそれぞれ館を構える。後、鎌倉幕府に仕え、南北朝の頃は足利尊氏の北朝に属し、戦国期には後北条氏に従うが、豊臣秀吉の小田原攻めで敗れて廃城する。典型的な中世の館跡で現状は東別府神社が建つ。熊谷市東別府。県指定史跡。 |
39 別府城跡「土塁と堀」 |
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土塁と堀がよく残っている。
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40 別府城跡「狛犬」 |
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その表情は恐ろしげだ。
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