Web-ProPhoto.com
2013年3月27日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
Reportage
作品一覧
List


 武蔵国カメラ風土記7 源平合戦   First appearance on the Web: April 10, 2012
 The war between the clans of Genji and Heike in Musashi Province


埼玉県の比企郡一帯には、源平合戦を戦って名を残した武者達の遺跡が数多くある。地名は勿論のこと、その墓をはじめ、深谷市には平家の公達、薩摩守平忠度の供養塔があって、本庄市にはなんと平重衡の「首塚」まである。

今年2月21日には歌舞伎の市川團十郎氏が美里町の熊谷直実の墓と深谷市の薩摩守平忠度の供養塔をお参りしてニュースとなった。平家物語の武蔵武士達の足跡がちゃんと残っているのだ。

頼朝の挙兵で武士達はなだれを打って鎌倉に馳せ参じたが、源氏の世が3代で終わって、もともとは平氏の北条氏が実権を握ったのは歴史の皮肉と言っていい。「東国の武士団」「武士の台頭」と重複する所もあるが、あえて「源平合戦」としてまとめてみた。

この作品の撮影地点マップはこちらへ     Google Earth で開く 

各画像をクリックすると拡大表示されます。Click to enlarge.  
各作品の著作権はすべて撮影者に帰属します。
二次使用は固くお断りいたします。



01 安楽寺「三重塔」 別名、吉見観音。源頼朝の異母弟、蒲冠者範頼が寄進した。現在の建物は江戸の寛永年間の再建(武士の台頭参照)。吉見町御所374。

02 息障院「地蔵堂」 室町期の建築(武士の台頭参照)。安楽寺を含めたこの辺り一帯が蒲冠者範頼の館跡という。吉見町御所146。

03 金蔵院
   「伝大串次郎重親宝篋印塔」


04 「伝大串次郎重親宝篋印塔」

05 「普済寺」 猪俣党岡部六弥太忠澄の館跡。本堂の棟に「丸に跳ね十字」の岡部家の家紋。深谷市普済寺973。

06 「岡部氏一族墓地」 普済寺近く。右から二つ目が岡部六弥太の五輪塔。保元、平治の乱に源義朝に仕え、一の谷合戦で平家の薩摩守忠度を討って名をあげる (東国の武士団参照)。普済寺811。

07 一乗寺「人見氏累代墓」 猪俣党人見四郎泰国の基。平家物語一の谷合戦に四郎の名がある。深谷市人見1691。

08 「人見氏館跡」 一乗寺近くにある。現在は個人宅。室町中期からは深谷上杉氏が居住。人見1513。

09 「榛沢六郎成清遺跡」 丹党榛沢六郎は畠山重忠とは乳兄弟。共に多くの源平合戦を戦うが、北条氏に二俣川で重忠と共に討たれた。深谷市後榛沢437。

10 「成清供養塔」 江戸の享保7年(1722)の建立。

11 「成清五輪塔」

12 永光寺「内ヶ島氏館跡」 猪俣党岡部氏一族の内ヶ島五郎が開基。深谷市内ヶ島644。

13 清心寺「薩摩守平忠度供養塔」 忠度を討った岡部六弥太が建立して菩提を弔ったという。深谷市萱場441。

14 「畠山重忠像」 畠山重忠公史蹟公園内。一の谷ひよどり越えで、馬を背負って降りる場面である。菅谷館跡にも重忠の像。深谷市畠山520。

15 「畠山重忠一族墓地」 畠山重忠公史蹟公園内。中央の大きな五輪塔が重忠の墓 (東国の武士団参照)。畠山氏はもと秩父平氏で、平野が広がるこの地に拠点を移した。

16 玉井寺「玉井四郎墓」 保元の乱で源義朝に従った。一の谷合戦では平通盛を討ったとある。熊谷市玉井1888。

17 「平山家住宅」 平山家は源平合戦に勇名をはせた平山武者所季重の末裔。子孫は戦国期に深谷上杉家に仕えるがやがて帰農する (武士の台頭を参照)。熊谷市樋春1067。

18 「平山家住宅」囲炉裏の間

19 「妻沼聖天」 源氏方だが、平治の乱後は平家に仕えた斉藤実盛の創建(東国の武士団、神社仏閣の彫刻参照)。熊谷市妻沼1627。

20 妻沼聖天「斉藤実盛像」 加賀国で木曽義仲勢と激突しようとする時、白髪のために侮られるのを防ぐため髪を黒く染めて戦った(東国の武士団参照)故事の像。

21 常光院「中条氏館跡」 中条家長は鎌倉幕府評定衆の一人 (東国の武士団参照)、館の一部に寺を作る。熊谷厄除大師として有名。熊谷市上中条1160。

22 放光寺「安達藤九郎盛長墓」 安達氏館跡。盛長は頼朝の乳母の比企尼の娘婿。頼朝が流人の時から側近く仕える。昭和58年に伊豆修善寺の墓地を子孫と関係者がここに改葬。鴻巣市糠田1439。

23 真鏡寺「渋谷金王丸墓」 児玉党塩谷氏の館跡。金王丸は義朝の従者として有名だが、詳細はわからない。本庄市児玉町塩谷88。

24 「真鏡寺境内の土塁」 土塁らしき地形が残っている。

25 「別府城跡」 平安末期からの東別府氏館跡。別府氏は東と西の二家に別れて双方とも源氏に従う。土塁にムラサキハナナが群生していた(東国の武士団参照)。熊谷市東別府。

26 安楽寺「別府氏一族墓」 真ん中の大きな板石塔婆は南北朝時代の別府頼重の墓。熊谷市西別府2044。

27 「平重衡首塚」供養塔 児玉党の蛭川高家(家長との説もある)が一の谷合戦で平重衡を捕える。重衡は鎌倉に護送され、更に奈良に送られて木津川畔で斬首されるが、蛭川氏が自らの館わきに首塚を祀ったという。本庄市児玉町蛭川215。

28 「連生堂」 桓武平氏の末の熊谷直実の墓。保元、平治の乱では源氏方だが、その後、平知盛に仕える。頼朝の挙兵で再び源氏に加担、一の谷合戦で平敦盛を討つ。後、出家して浄土宗「法然」の弟子となって「蓮生」を名乗る。墓は諸説あって、一般的には熊谷市の熊谷寺だが、この地にはここで亡くなって埋葬され、後に小さなお堂が建ったという伝承がある。美里町下児玉十条熊谷。

29 高台院
   「猪俣小平六範綱と一族の墓」
小平六(左の墓石か)は保元、平治の乱に源義朝に従い、一の谷合戦で平盛俊を討つ。岡部六弥太は同族。美里町猪俣。

30 「猪俣小平六範綱館跡」

31 「猪俣百八灯」塚 毎年、盆の8月15日夜、百八基の塚に点火して小平六とその一族の霊を慰める。国指定無形文化財。美里町猪俣堂前山。

32 菅谷館跡「鉄砲隊」 11月の「嵐山時代祭り」で鉄砲隊行列や流鏑馬がある(東国の武士団参照)。嵐山町菅谷。

33 菅谷館跡「畠山重忠像」

34 「鎌形八幡神社」 木曽義仲(幼名、駒王丸)産湯の井戸がある(東国の武士団参照)。嵐山町鎌形1993。

35 鎌形八幡神社「流鏑馬1」 神社わきの土手で春には流鏑馬が奉納される(今年は4月1日)。

36 鎌形八幡神社「流鏑馬2」

37 「斑渓寺」 木曽義仲誕生の地といい、鎌形八幡神社のすぐ側にある。妻の山吹姫の墓がある(武士の台頭参照)。嵐山町鎌形1907。

38 「安保氏館跡」 丹党安保実光(あぼさねみつ)の館跡。一の谷合戦から後鳥羽上皇と幕府が衝突した承久三年(1221)の乱まで名があって、安保氏は戦国期まで続く。神川町元阿保176-11。

39 廣徳寺「大御堂」 北条政子が御家人の美尾屋十郎廣徳の菩提を弔うため美尾屋氏の館跡に建立した阿弥陀堂。室町期の再建。国指定重要文化財。川島町大字表76。

40 宗悟寺「比企一族顕彰碑」 鎌倉ニ代将軍頼家が暗殺されて、妻(側室)の若狭局(比企能員の娘)はここ比企氏本貫の地に逃れて寿昌寺を建てるが、後の天正年間に徳川家臣の森川氏が宗梧寺として再興する。頼家の位牌が残る。東松山市大谷400。

本作品の撮影地点マップはこちらへ

この写真家の作品一覧へ   Web-ProPhoto.com トップページへ   ▲このページの先頭へ

Copyright © Satoshi Niwa and Web-ProPhoto.com 2013. All rights reserved.