01 「鴻巣宿」 |
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町並みは新しいが宿場町の面影はある。
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02 鴻巣宿「勝願寺」 |
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浄土宗寺院。信州松代藩初代真田信之の妻の小松姫とその息子の真田信重夫妻、戦国武将の仙石秀久、関東郡代の伊奈氏らの墓がある。徳川家の厚い保護を受けて葵の紋の使用を許された鴻巣を代表する大寺院である。鴻巣市本町8-2-31。
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03 勝願寺「伊奈氏墓」 |
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関東郡代と呼ばれて権勢を振るった伊奈氏の墓がある。左が初代の忠次、右が子の忠冶の墓。家康が江戸に幕府を開くと河川改修などに采配を振るって今日の関東の田畑の基盤を作った。官名からその名が付いた関東各地の「備前堀」は現在も田畑をうるおす。寛政4年(1792)伊奈氏は12代忠尊で改易になったが、末裔は旗本として幕末まで残った。県指定史跡。
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04 寶持寺「全国渡辺会供養塔」 |
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隣接する箕田(氷川)八幡神社は箕田源氏発祥の地で、平安時代、京の一条戻り橋で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした渡辺綱はここで生まれた。そのため全国の渡辺姓のここが本貫の地だと境内に渡辺一族供養塔を建立した。清和源氏の祖、源経基館跡も近く、一帯は武蔵国の源氏の拠点だった。鴻巣市箕田2034。神社は県指定旧跡。
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05 鴻巣市前砂交差点「中山道石標」 |
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06 鴻巣市「権八地蔵」 |
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鴻巣市荊原(ばらはら)集落の荒川土手の突き当たりにある。鳥取藩士の平井権八が同僚を殺害して江戸に逃れ、途中、金に困って商人を殺害して金を奪った。そこに地蔵堂があったので、地蔵に見られたと思い「見逃してくれ」と頼むと地蔵が「吾は言わぬが汝言うな」と口を聞いたと伝えられる。その後、権八は捕えられて江戸鈴ヶ森の刑場で磔に処された。鴻巣宿の勝願寺と熊谷の旧久下橋わきにも権八地蔵がある。鴻巣市荊原71-4。市指定民俗資料。
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07 荒川土手の中山道 |
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「久下の長土手」と呼ばれて戦国時代に小田原北条氏が作ったという。江戸時代の大名行列もこの道を通った。
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08 熊谷市「久下の権八地蔵」 |
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熊谷側に今はない旧久下橋のわき、かつて渡し舟があったという土手下に元禄11年(1698)造立の「権八地蔵」がある。お堂の前には奉納された小さなお地蔵さんが並んでいる。現在の久下橋はここからは少し離れている。熊谷市久下2342-5。市指定有形民俗文化財。
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09 熊谷市「一里塚」 |
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17号線の熊谷警察署に近い中山道東側の住宅街の一角に高さ12m、樹齢300年以上のけやきの大木が残る。熊谷市新島257。市指定史跡。
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10 熊谷市「香林寺の子供墓地」 |
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曹洞宗寺院。別府一族の菩提寺で中山道からは少し離れている。説明に「その昔、小乗仏教思想時代、先だつ者を不幸として親子別々に葬られた名残りで、現在の信仰からはまことに不憫、心から冥福を祈ってあげましょう」とある。昔、そのような習慣があったと知って驚いた。勿論、今はない。熊谷市東別府799。
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11 深谷市「幡羅(はら)遺跡」 |
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中山道から1キロ程離れた深谷市東方の全久院付近から熊谷市西別府の湯殿神社にかけての地域にあって、約500m四方の7世紀後半の大規模な古代幡羅郡役所跡で現況は畑。他には1例しかないというカマドの神、約20センチの人面線刻土製品が出土して注目を浴びた。深谷市ではこれをマスコットキャラクターにして「ハラ君」と呼んでいる。今回は郡役所周辺の居住域の発掘があった(撮影は2013年4月23日)。
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12 深谷市「幡羅遺跡」 |
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13 深谷市「国済寺三門」 |
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室町時代、深谷上杉家の館に作られた臨済宗寺院で上杉家歴代の墓がある。現在の建物は江戸中期の建築で非常に美しい。深谷市国済寺521。市指定建造物。
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14 「深谷商業高校」 |
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渋沢栄一の肝いりで創立された学校で建物は国登録有形文化財。現在修復工事中だが、その直前の2012年8月16日に撮影。深谷市原郷80。
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15 「深谷れんがホール」 |
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元、金物店の倉庫をNPO法人「深谷にぎわい工房」が貸ホール、イベントなどに利用している。深谷市深谷町9。
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16 深谷市稲荷町「常夜燈」 |
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深谷第一高等学校前の交差点から中山道を深谷宿(東側)の稲荷町に入った右側にある。西側は田所町に建っている。
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17 深谷市「七ツ梅酒造跡」倉庫 |
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元禄年間創業の跡地を「深谷とうふ工房」「深谷シネマ」などが利用している。最近、寺子屋が再現されるなど、古い建物を使った活動が盛んだ。深谷市深谷町9-12。
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18 源勝院「安部家墓地」 |
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旧岡部町の曹洞宗寺院。江戸時代の岡部藩主家菩提寺で2代から13代までの藩主の墓が一列に並んでいる。深谷市岡部786。市指定史跡。
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19 「岡部藩陣屋跡」 |
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幕末に幕府の命で西洋式兵学の先駆者で砲術家の「高島秋帆(たかしましゅうはん)」が弘化3年(1846)から嘉永6年(1853)まで幽閉されていたが、藩は客分扱いにして秋帆は藩士に兵学を伝授した。現況は畑で碑が建つのみだが、陣屋の長屋門は近くの全昌寺(深谷市岡3313)に移築されている。深谷市岡部1201。
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20 旧岡部町「お手長山古墳」 |
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古墳上に「天手長男(あめのたながお)神社」が鎮座していることからこの名が付いた。櫛挽台地北西部に位置し6世紀末頃の首長クラスの前方後円墳(帆立貝式)だと説明にある。近くには幡羅遺跡と同じ古代の郡役所、中宿遺跡があり、一帯は小型の古墳が数多くある。深谷市岡2006-1。市指定史跡。
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21 旧岡部町「中宿遺跡」 |
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「道の駅おかべ」隣にある。櫛挽台地の先端部に位置し平成3年の発掘で奈良時代の榛沢郡役所の高床式倉庫群跡が発掘された。この台地の先の河川敷の向こうに小山川と利根川が流れて水運の便が良い立地にある。深谷市の幡羅遺跡はこの下流に当たる。深谷市岡3286-2。
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22 小山川「滝岡橋」 |
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「道の駅おかべ」の先、中山道の深谷市と本庄市の境の小山川にかかる橋で国登録有形文化財。昭和3年(1928)竣工で土木学会の「日本の近代土木遺産」に選定されているという。
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23 本庄市「旧本庄商業銀行 煉瓦倉庫」 |
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明治29年に中山道に面して建てられた。なんと融資の担保となった大量の繭を保管するためだったという。渋沢栄一が設立に関与した深谷の日本煉瓦製造の煉瓦が用いられた。最近まで菓子店が工場兼店舗として使用していたが、現在は市が管理している。本庄市銀座1-5-16。国登録有形文化財。
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24 本庄市「歴史民俗資料館」 |
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明治16年(1883)建築の旧本庄警察署を資料館としている。本庄市中央1-2-3。県指定建造物。
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25 本庄市「歴史民俗資料館」 ベランダ手すりの意匠 |
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26 本庄市「歴史民俗資料館」 笑う人物埴輪 |
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近辺の古墳からこのような表情を持った埴輪が多く出土した。
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27 本庄市「金鑚神社」 |
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中山道に面して建つ。創立は欽明天皇2年(541)武蔵七党児玉党の氏神で本庄宿の総鎮守。現在の社殿は権現造りの江戸時代の再建で極彩色の彫刻が知られている。本庄市千代田3-2-3。
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28 金鑚神社「彫刻」 |
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29 本庄市「旧藤田村役場」 |
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藤田小学校の隣、東側にある。元の本庄市埋蔵文化財センターで、その以前が旧藤田村役場だった。本庄市牧西1137。
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30 本庄市旧藤田村「双体道祖神」 |
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中山道を挟んで藤田小学校の正面のイチョウの木の根元にある。
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