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2013年11月21日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
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 武蔵国カメラ風土記26 木村九蔵と競進社模範蚕室
 Kuzo Kimura and Kyoshinsha Model Silkworm Rearing Room   New Work


木村九蔵(くぞう)は養子に行った先の名で元の名は高山巳之助(みのすけ)。江戸時代末の弘化2(1845)年、現在の群馬県藤岡市高山で養蚕を営む高山寅蔵の五男に生まれた。この年、浦賀に米国の捕鯨船マンハッタン号が日本の漂流民を届けて通商を求め、前後に続々と諸外国の船が沿岸に現れる。嘉永6(1853)年には米国のペリー提督が久里浜に上陸、日本は幕末の動乱の時代を迎えて沸騰した。幕府は翌年の安政元年(1854)に日米和親条約を締結、安政6(1859)年に横浜が開港すると日本の主な輸出品は生糸だった。その時代に巳之助は成長した。

慶応3(1867)年、巳之助23歳の時、現在の埼玉県児玉郡神川町新宿の木村家を継いで木村九蔵を名乗った。この年は徳川慶喜が大政を奉還し、王政復古の大号令で戊辰戦争が始まる直前だ。だがすでに横浜では貿易が拡大し、当時ヨーロッパで「微粒子病」という蚕の病気が大流行したこともあって生糸の輸出が半数を占める勢いになっていた。

この頃、実兄の高山長五郎は養蚕の温度管理と換気を工夫した「清温育」を唱え、明治3(1870)年「養蚕改良高山組」を結成した。生糸の輸出は富国強兵を急ぐ国家にとって急務だった。渋沢栄一は明治5(1872)年に富岡製糸場を設立している。長五郎はより普及させるべく明治17(1884)年、高山組を「養蚕改良高山社」に発展させて各地に養蚕の学校を作った。

一方、九蔵も明治5(1872)年新たに「一派温暖育」を考案した。明治10(1877)年「養蚕改良競進組」を結成して兄と同じく明治17年には「養蚕改良競進社」と組織を改め事務所と伝習所を児玉町に置いた。明治27(1894) 年、日清戦争が起きた年にこの模範蚕室を建て、明治30 (1897)年には蚕業講究所を作ってさらなる普及に努めた。だが、翌、明治31年に病を得て54歳で亡くなった。兄の長五郎も57歳で世を去っている。しかしながら九蔵の蚕業講究所はその後に県立児玉農業高校へと発展して地域社会に大きく貢献した。この学校は現在も県立児玉白楊高等学校として続いている。埼玉県本庄市児玉町児玉2514。県指定建造物。

使用カメラ:ニコンD800. レンズ:24-120mmf/4G, 70-200mmf/4.
参照Webサイト

神川町サイト, 木村九蔵
http://www.town.kamikawa.saitama.jp/machi/ijin/kimura.html


本庄市サイト, 競進社模範蚕室パンフレット(PDF)
http://www.city.honjo.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/37/kyousinnsya.pdf


蚕糸について:大日本蚕糸会サイト, カイコからのおくりもの(PDF)
http://www.silk.or.jp/pdf/kaiko.pdf


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01 競進社模範蚕室全景 四つのやぐらが屋根にある。養蚕のための建物とひと目でわかる。全体の保存状態は極めて良好だが、雨戸などは板自体が薄くなってスライドさせるのが困難という。

02 木村九蔵の胸像 まだ設置されたばかりで平成25(2013)年11月10日に除幕式があった。

03 蚕室 空気の流れを考えた構造になっている。

04 蚕室の床 床下に火鉢を置いて部屋を暖めた。掘りごたつにすのこ状のふたがあると理解すればよい。

05 蚕室の天井 すのこ状にして温かい空気が二階蚕室に流れるようにした。

06 床下の火床 真ん中に火鉢がある。

07 蚕室の火床と蚕棚

08 火床の床下

09 蚕棚

10 二階蚕室 往時はこの広い空間に蚕棚が並んだ。床が痛んでいるために立ち入ることは出来ず、二階に上がる梯子に乗って撮影した。

11 織機

12 足踏み座繰(ざぐり) 繭から糸をとる糸引器。繭を煮た鍋を台に載せて自転車を漕ぐようにして糸を巻き取る。大正~昭和に普及した。

13 木鉢の繭 蚕盆とも呼ぶ。

14 繭毛羽取機(まゆけばとりき) 蚕が繭を作る時に最初に吐き出す真綿状の糸を取り除く機械。大正~昭和にかけて広く普及した。

15 蔟折り機(まぶしおりき) 説明に「蚕が繭を作るための場の蔟をおる道具。二角式。藁を上からさしてハンドルを左右に倒して藁を折った」とある。蔟は国語辞典で「蚕を移し入れて繭を作らせる藁で作った道具」とあり、昔は蚕が巣を作る囲いを藁で編んだ。後には藁が段ボール製にとって代わられた。よく箱の中で饅頭が一個ずつ並んでいるが、その仕切りのことを蔟といった。(17, 23 参照)

16 籾殻(もみがら)焼き煙突 蚕座を乾燥させるために使った籾殻を蒸し焼きにする道具。

17 繭かき用の道具 説明に「回転蔟(かいてんまぶし)から蔟をはずし、一枚を四角の木枠にはめ込み、その上から蔟の縦横の枠数と同じ数の刃が付いた道具で上から押し付けて、繭を取りやすくした。木枠は回転蔟を組み立てる時の台にも使った」とある。

18 蚕種紙 蚕の卵を産み付けた紙。養蚕農家はこれを購入して孵化させ蚕を飼育、繭を生産した。渋沢栄一の伝記に「横浜では蚕種紙が高値で膨大な量が取引されたが、中には質の悪いものもあって値動きが激しかった」とある。

19 桑切り包丁 読んで字のごとく桑の葉を細かく切った。

20 糸車 糸繰車とも言った。よく時代劇に登場する。

21 座繰 繭から糸をつむぐ器具。横の取手を回して回転させる。

22 桑切り機 桑の葉を大量に裁断する時に使用した。

23 回転蔟(かいてんまぶし) 蚕に繭を作らせるための器具。木枠の中に段ボール製の蔟を組み込んで天井から吊るした。回転させることで均一に繭が出来た。段ボールが普及する以前は藁を使用した。藁は一度しか使用出来ないが、段ボールだと何度でも使用出来た。

24 繭缶 乾燥した繭を出荷までブリキ製の大型缶に保管した。繭は湿気が大敵だった。

25 明治44年の蚕室の写真

26 記念写真 前列に女性の姿があるから女性も学んでいたのだろう。前列中央の扇を手にした男性が木村九蔵と思われる。

27 木村九蔵

28 屋根のやぐら 幕末の頃、伊勢崎市島村地区の田島弥平が考案した空気を入れ替えるための高窓。弥平は空気の循環が蚕に欠かせないと考えた。この構造は一気に日本中に普及したと思われる。

29 産業教育発祥の地 競進社模範蚕室の真向かいの公園に碑がある。木村の養蚕伝習所が埼玉県の産業教育の始まりで、県で最初の農学校だった。これを記念した。

30 高山社跡 今、群馬県が世界遺産登録をめざす「富岡製糸場と絹産業遺産群」のひとつで木村九蔵の実家。現在の建物は長五郎の娘婿の武十郎が明治24(1891)年に清温育のモデルケースとして建て、実習を行う分教場に使用された。江戸末期の堂々とした長屋門も一見の価値がある。群馬県藤岡市高山236-1。

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