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2014年5月4日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
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 渋沢栄一&富岡製糸場と絹産業遺産群
 Eiichi Shibusawa, Tomioka Silk Mill and Related Sites   New Work


平成26(2014)年4月26日早朝、ユネスコの諮問機関が群馬県「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界文化遺産登録を勧告したニュースが流れた。待ちに待ったニュースだった。
硲 宗夫氏
(毎日新聞社提供)
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平成14(2002)年、高崎商科大学教授に就任した元毎日新聞経済部記者の硲宗夫(はざま・むねお)氏が、富岡製糸場と上信電鉄を核として地域を活性化させるべく、製糸場を世界遺産にしようと活発に活動をしておられた。これが富岡製糸場を世界遺産にという具体的な動きのきっかけだったろう。

大企業の経営者や、著名なエコノミストを呼んでシンポジウムを定期的に開き、製糸場の見学会も主催した。自分も氏の指示で2ヶ月で上信電鉄の風景を撮影して群馬県庁ロビーで写真展を開いた。かつて八幡・富士製鉄合併の大スクープをものにして多くの財界人の取材を精力的にこなしていた氏ならではのスケールの大きい活動だった。残念ながら氏は病気で故人となられたが、あの世でこのニュースをさぞ喜んでおられると思う。

製糸場建設は深谷出身の渋沢栄一が器械製糸の導入と技術者の養成を意図して企画した。明治5(1872)年に工場が稼働して日本の殖産興業に大きな影響を与え、さらに渋沢は明治26(1893)年には三井家に払い下げて民間活力の促進を図った。その後は変遷を経て昭和14(1939)年から片倉工業が昭和62(1987)年まで操業、製糸場は文化財として平成17(2005)年に富岡市に移管された。

群馬県は製糸場に関連する藤岡市の養蚕の学校「高山社」、蚕の卵を冷蔵保存して出荷調整を可能にした下仁田市「荒船風穴」、養蚕技術の向上を工夫した伊勢崎市「田島弥平宅」の4か所をセットにして世界文化遺産への登録を目指して来た。

深谷市と富岡市は平成25(2013)年10月4日、製糸場が開場したその記念日に「友好都市提携協定」を結んだ。富岡市のホームページに「渋沢栄一をはじめとする深谷市出身の偉人たちが大きな役割を果たしました。日本資本主義の父と称される渋沢栄一は、明治政府から官営製糸工場の設置主任者を命ぜられ、工場の立案や国内外の折衝に奔走しました」とあるように、渋沢の従兄弟の尾高惇忠が初代場長、レンガは深谷市明戸の韮塚直次郎らが焼き、明戸の瓦職人や大工が大勢富岡市に移住して、女工の第1号は尾高の娘だった。

使用カメラ:ニコンD1H(No.41のみ), D800. レンズ:16-35mmf/4, 24-70mmf/2.8, 24-85mmVRf/3.5-4.5, 24-120mmf/4, 70-200mmf/2.8, 70-200mmf/4, 28-300mmf/3.5-5.6.

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01 渋沢栄一銅像 東京都板橋区の東武東上線大山駅前の旧養育院に渋沢の大きな銅像がある。渋沢は企業以外に日赤、東京慈恵会、済生会、聖路加国際病院、滝乃川学園など多くの医療、社会福祉事業の経営に関与、旧養育院では92歳で亡くなるまで50年以上も院長を務めた。渋沢記念財団が公表している数字では関係した社会公共事業は600に及ぶ。なお、旧養育院は東京都健康長寿医療センターと名を変えている。東京都板橋区栄町35-2。
(2014.4.7撮影)

02 中の家(02-07) 渋沢の生家。通称「なかんち」と呼び、建物は一般公開されている。この2月の雪で多少損害を受けた。解説員の方達は渋沢のことにとても詳しい。深谷市血洗島247-1。
(2013.11.16撮影)

03 若き日の栄一像 武士姿の若き渋沢像である。渋沢の家は農家だが、論語を学び、江戸の北辰一刀流千葉道場で剣術も学んで憂国の志を持つ幕末の志士の一人だった。江戸時代の中頃からは武士も町人も百姓も実態として身分制度はゆるやかで、江戸では町人が御家人株を買って武士の仲間入りをすることがめずらしくなかった。
(2014.4.29撮影)

04 母屋 母屋は栄一の妹夫婦が建替え、渋沢は帰郷した時は1階の座敷に寝泊まりした。現在1階部分のみ見学が出来る。建物は市のイベントなどに利用され、この日は大正琴と三味線の演奏があった。
(2013.11.16撮影)

05 母屋での三味線と踊り (2013.11.16撮影)

06 玄関の上り框の写真 左が渋沢栄一。右の二人は栄一の妹の貞(てい)の子だから渋沢の甥に当たる。真中が渋沢元治で学者の道を歩んだ。右が渋沢冶太郎で「中の家」を継いで県会議員などを歴任した。
(2012.09.09撮影)

07 蔵 母屋裏手の蔵。蔵はイベントがある時以外は非公開。
(2013.12.1撮影)

08 渋沢栄一記念館(08-10) 八基公民館の一室が記念館で渋沢の遺墨などの資料を展示している。渋沢を研究する解説員の方がおられて深谷市の広報誌に渋沢の記事を連載中だ。この建物の建設時には地下から古墳時代と推定される遺跡が出土して文化財に指定された埴輪もある。深谷市下手計(しもてばか)1204。
(2012.8.28撮影)

09 青い目の人形 国際交流に尽力した渋沢は、外務省の依頼で昭和2(1927)年にアメリカから贈られた12,739体の青い目の人形を引き受け、全国の幼稚園、小学校に配布した。返礼にアメリカに58体の日本人形を贈ってアメリカと日本の子供達に夢を与えた。だが、時代は急速に日米関係が悪化、日本では青い目の人形は敵性人形であるとして多くが焼却処分された。渋沢記念財団のホームページでは残った人形は現在約300体が確認されるだけという。
(2013.4.10撮影)

10 家族の写真 左の写真が渋沢と長女の穂積歌子、真中が渋沢の妻の千代。千代は尾高惇忠の妹で、明治15年にコレラで他界した。その右側が渋沢で、その向こうに後妻に入った伊藤兼子の写真がある。若い頃の渋沢は千代と婚礼を挙げてもほとんど家に帰らず、千代と過ごした時間はとても少なかった。国事に奔走する渋沢を千代は待ち続け、ようやく渋沢が落ち着いた頃に世を去った。
(2013.4.10撮影)

11 尾高惇忠の家(11-15) 尾高は渋沢の従兄弟で渋沢の論語の師匠でもあり、剣客の尾高長七郎の兄でもある。渋沢ともう一人の従兄弟の喜作(渋沢成一郎と名乗って函館五稜郭まで戦った)らはこの家の二階で討幕を語り、高崎城乗っ取りと横浜外国商館の焼き討ちを計画、渋沢は武器の調達までした。だが、長七郎の反対で決行は断念した。もし決行していればただちに幕史の追捕を受けてのちの渋沢栄一は世に存在しなかったに違いない。深谷市下手計236。
(2013.4.10撮影)

12 尾高家見学会 深谷市のイベントで一般公開され、御当主の説明があった。
(2013.12.1撮影)

13 内部

14 土間

15 レンガの蔵 何度か塀越しに撮影した。
(2013.4.10撮影)

16 誠之堂(16-19) 大正5(1916)年、第一銀行の行員達が渋沢の喜寿(77)を記念して東京世田谷区瀬田の銀行の保養所内に建てた。「西洋風の田舎屋」をコンセプトに設計は田辺淳吉、施工は現在の清水建設による。平成11(1999)年8月に現在地に移築復元されて深谷市の貴重な文化財になった。深谷市起会84-1の大寄公民館内にあり、公民館受付に解説員がいる。この方達も渋沢のことにとても詳しい。国指定重要文化財。
(2013.7.8撮影)

17 室内 (2013.7.1撮影)

18 室内 (2013.7.1撮影)

19 雪の誠之堂 (2014.2.8撮影)

20 雪の清風亭 大正15(1926)年、当時の第一銀行頭取、佐々木勇之助の古希(70)を記念して誠之堂と並んで建てられた。様式はスペイン風。設計は清水建設の田辺の後輩、西村好時。西村は東京三田の渋沢邸も手掛けた。渋沢の誠之堂と一緒に深谷市に移築復元された。県指定有形文化財。
(2014.2.8撮影)

21 富岡製糸場(21-30) 東繭倉庫前での解説員の説明風景。木の骨組みにレンガを積んだ「木骨レンガ造」で屋根は日本瓦で葺くというきわめて独創的な建物である。主に1Fは事務所に使い、2Fに繭を保管したという。今は1Fが展示室で売店もある。群馬県富岡市富岡1-1。
(2013.6.3撮影)

22 女工館 フランス人女性教官の住居。(2013.6.3撮影)

23 太い柱 主に妙義山系から杉材、吾妻の山々からは松材を切り出した。
(2013.7.8撮影)

24 繰糸場 繰糸場はこの施設の中心。創業当初は世界最大規模の製糸場で世界中に良質な生糸を輸出した。地震に強いトラス構造を採用し、採光のためのガラス窓の設置は当時の日本では画期的だった。
(2013.6.3撮影)

25 自動繰糸機 昭和40年代に設置された器械で現在も稼働可能という。
(2013.7.8撮影)

26 レンガの刻印 レンガは主に富岡の隣の甘楽町福島で深谷出身の瓦職人、韮塚直次郎らが苦労して焼いた。レンガの目地にはセメントがないので下仁田の漆喰を使用した。
(2013.6.3撮影)

27 ブリュナ館 建設と繰糸を指導したフランス人ポール・ブリュナの官舎。横浜の商館にいたのをスカウトした。
(2013.6.3撮影)

28 片倉工業時代の社宅 (2013.6.3撮影)

29 友好都市提携調印式 2013年10月4日、製糸場が開場したこの日に富岡市の岡野光利市長(左)と深谷市の小島進市長(右)が友好都市提携を調印した。富岡製糸場を訪れた観光客に深谷市にも来てもらわねばならない。なお、現在、富岡市長は岩井賢太郎氏に交代している。
(2013.10.4撮影)

30 イメージキャラクターの
   お富ちゃんとふっかちゃん
左が富岡市のお富ちゃん、右が深谷市のふっかちゃん。友好都市提携を調印した東繭倉庫前にて。
(2013.10.4撮影)

31 荒船風穴(31-32) 荒船山の山中で岩の間から冷風が噴出するのを利用して蚕種を貯蔵した跡で3基の風穴がある。明治38年(1905)から事業を開始、電気冷蔵技術が普及する昭和10年頃まで全国の養蚕農家から蚕種を預かった。それまで蚕は年1回の春蚕が中心だが、温度調節で年3回の養蚕が可能になった。群馬県下仁田町大字南野牧字屋敷甲10690。国指定史跡。
(2013.6.6撮影)

32 解説員の説明 (2013.6.6撮影)

33 高山社(33-34) 明治初年に高山長五郎が夏は風通し良く、寒い時は火鉢で蚕を温める「清温育(せいおんいく)」の方法を考案して明治17年(1884)に「高山社」を設立、各地に分教場を作ってその技術を普及させた。現在の建物は長五郎の娘婿の武十郎が明治24年(1881)に養蚕のモデルとして建てた。群馬県藤岡市高山字竹之本236。国指定史跡。
(2013.6.6撮影)

34 蚕棚 床に風通しを良くするための工夫がある。
(2013.6.6撮影)

35 田島弥平旧宅(35-36) 伊勢崎市の島村集落は利根川に面した埼玉県側に位置し、渋沢栄一の出身地、深谷の血洗島に近い。幕末に田島弥平が蚕種を涼しい環境におくために屋根の上に「やぐら」と呼ぶ換気の窓(越屋根、天窓ともいう)を付けて「清涼育」と名付けた。群馬県伊勢崎市境島村2243。国指定史跡。現在も居住しているため見学は外観のみ。
(2013.6.3撮影)

36 養蚕新論版木 弥平が出版した。境島小学校に隣接した田島弥平旧宅案内所(境島村1968-378)にその他の資料とともに展示。
(2013.6.14撮影)

37 晩香廬(ばんこうろ)(37-38) 誠之堂とほぼ同じ大きさの平屋で、飛鳥山の渋沢家旧本邸内にある。内外の来客をここで応接、渋沢の民間外交の舞台になった。東京都北区西ヶ原2-16-1 飛鳥山公園内。
(2013.7.6撮影)

38 室内 見学は出来るが撮影は不可。この写真は特別に許可を得て2013.8.8に担当者立会いの下に撮影した。

39 青淵文庫(せいえんぶんこ)(39-40) 渋沢の雅号は「青淵」。鉄筋コンクリートと煉瓦を使用した2階建で晩香廬の隣にある。書庫兼接客用に使用された。見学、撮影も可。
(2013.7.6撮影)

40 閲覧室 (2013.7.6撮影)

41 デキ1形電気機関車 上信電鉄が大正13年(1924)ドイツのシーメンス社から輸入したわが国最古の電気機関車で、あだ名が「上州のシーラカンス」。上信電鉄は明治30(1897)年に下仁田と高崎間で主に富岡製糸場の生糸や繭の運搬のために敷かれた路線で沿線の養蚕農家や自治体が株主だ。製糸場と切っても切れない関係にあった。
(2002.10.13 ニコンD1Hで撮影)

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