中の家と周辺
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01 中の家 |
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渋沢の生家で「なかんち」と呼ぶ。 現在の建物は渋沢が生まれた建物ではなく、明治28(1895)年に妹の貞(てい)夫婦が建て直した家。渋沢にとってはここが実家で両親の墓も家の門前にある。年に数回は帰郷して貞の夫の市郎(婿養子)が渋沢のために特に丁寧に造作した一階の座敷でくつろいだという。近所のお年寄りの記憶では渋沢は帰郷した時は必ず近所の子供達に鉛筆やノートなどの文房具をたくさんみやげに持って来たという話が伝わっている。「渋沢栄一生地」として県指定旧跡。深谷市血洗島247-1。
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02 母屋前の観光客 |
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群馬県富岡製糸場に世界文化遺産への勧告が出てからは連日100名を超える観光客が訪れ、ボランティアの解説員が懸命に対応している。
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03 土間 |
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渋沢の写真などを展示。
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04 渋沢と孫達の写真 |
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渋沢には大勢の孫がいた。
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05 孫文の手紙 |
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渋沢の交友は幅広く、中国の孫文、米国南北戦争の北軍総司令官で第18代米国大統領のグラント将軍、インドの詩人タゴール、横山大観、古河財閥の創始者、古河市兵衛、三井物産の益田考、大隈重信など国内外の友人が大勢いた。
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06 渋沢平九郎の碑 |
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平九郎は尾高惇忠の末弟。渋沢は19歳の時に尾高の妹の千代(18)を妻に迎えていたが、さらにその弟を「見立て養子」にした。渋沢が水戸昭武のパリ万国博親善使節に随行する時に、不測の事態に備えて渋沢の家を繋いで行くための措置だった。ところがパリ滞在中に戊辰戦争が勃発、平九郎は惇忠、喜作らと振武軍を名乗り飯能で官軍と戦って敗北、追い詰められて現越生町黒山で切腹して果てた。官軍はその首を寺の門前に晒したという。弱冠22歳の若さだった。渋沢は嘆き悲しみ、大正6(1917)年に碑を建立、東京谷中の渋沢が眠る渋沢家墓地内にあったが、平成26(2014)年の今年3月、ここに移転した。
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07 青淵の池 |
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中の家の裏手にある。この池の名から渋沢は「青淵」の号を名乗った。
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08 渋沢家墓地 |
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中の家の門前の墓地。左から二番目の墓石が渋沢の父「市郎右衛門」、手前が母の「えい」。
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09 青淵亭のうどん |
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中の家の隣「座ダイニング青淵亭」の建物は元々が渋沢家の番頭さんの住宅で、太い柱と梁が昔の隆盛を物語っている。渋沢は帰郷すると深谷ネギをたっぷり入れて煮込んで「とろみ」を出した深谷の名物「煮ぼうとう」を好んで食べたと言われている。今はもう初夏なので今回は冷たいうどんを撮影した。店内は近辺の施設のパンフレットや地図をたくさん置いて観光案内所の役割も果たす名物店だ。
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10 水戸浪士弔魂碑 |
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中の家のすぐ前の薬師堂境内に水戸天狗党の浪士二名が葬られている。左側に大正7年に渋沢の撰文・筆で建立した慰霊の碑があり、真中に渋沢の叔父の宗助が安政7年に建立した石地蔵がある。
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11 渋沢宗助の名 |
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石地蔵の台座の一番右側に渋沢宗助の名がある。宗助は渋沢栄一と尾高惇忠の叔父で、一族の長老の立場にあった。「養蚕手引抄」を著し、論語を読み、剣術の達者でもあった。横浜に出店して生糸と蚕種(蚕の卵)の貿易に携わった。
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渋沢栄一記念館
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12 渋沢栄一記念館 |
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八基公民館と同居し、渋沢や尾高の資料をここに展示した「論語の里」の中心施設。今後、さらに展示を拡充する予定。深谷市下手計(しもてばか)1204。
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13 渋沢栄一像 |
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記念館の裏手にあるかなり大きな像。前に広がる青淵公園を向いて建っている。
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14 檄文 |
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文久3(1863)年、旧暦11月12日の冬至の日を決行の日と決めて高崎城の乗っ取りと横浜異人館の焼き討ちをしようとした尾高惇忠の手になる檄文。一足先に京都で時勢を見た尾高の弟の長七郎が「無謀な計画でしかも決起は時期尚早」と猛反対して決行は中止された。この時点ではまだまだ幕府の力は強大だった。もし決行していればただちに鎮圧されて渋沢も尾高も首を獄門台にかけられたに違いない。なお、左側の武士姿の渋沢はパリで撮影したもので、この写真をもとに製作された像が中の家の前庭に建っている。
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15 パリでの渋沢の写真 |
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ちょん髷を切った渋沢の写真。ちょん髷は当時の日本人にとって日本人の象徴だから、この写真を見た妻の千代が驚き、嘆いたという逸話が残っている。
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16 渋沢喜作の写真 |
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喜作晩年の写真。
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尾高惇忠宅
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17 尾高惇忠宅の公開 |
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このほど尾高家から深谷市に建物が寄贈されて、毎日9:00-17:00の間、見学出来る。駐車可。深谷市下手計236。
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18 尾高家の説明 |
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5月24日(土)からの公開で、さっそくに見学者が訪れた。写真右側の説明をしている人物は教育委員会の職員。
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19 尾高家の居間 |
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つい、先頃まで台所わきの居間として使用された部屋。
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20 尾高家土間の竈 |
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21 尾高家の人々 |
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左上が惇忠で右側の女性が惇忠の妹で渋沢の妻になった千代とその長男の篤二。刀を差した青年が惇忠の末弟で渋沢の養子になった平九郎。凛々しい武士の姿だ。幕末に、写真館で撮影した平九郎のこうした写真が残っていることから尾高家は進取の気概を持った家庭だったのだろう。子孫に音楽家の尾高惇忠、尾高忠明氏らがいる。
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22 尾高惇忠の墓 |
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尾高家から下手計の交差点を東へ過ぎて左側の細い道を入って行くと左側に妙光寺の墓地があるが、その一角が尾高家の墓地。惇忠の墓石の並びには平九郎の碑もある。
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誠之堂
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23 誠之堂 |
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第一銀行の行員達が渋沢の喜寿(77)を記念してイギリスの田舎屋風をコンセプトに建てた洋館。渋沢が作った日本煉瓦製造会社の煉瓦を使用して建てた素晴らしい建築物だ。国指定重要文化財。深谷市起会84-1の大寄公民館内。
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24 誠之堂に大勢の観光客 |
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25 室内 |
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26 渋沢のレリーフ |
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暖炉の上にある。
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27 リビングわきの小部屋 |
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28 論語 |
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関係者が古本屋で見つけた江戸時代のものと思われる論語の実物。渋沢は大正5(1916)年に「論語と算盤」を著して「道徳経済合一説」を説いたが、これは論語の精神で経済を論じたものだ。写真撮影を仕事とする自分は今まで記者達と多くのトップインタビュー取材をして来たが、大企業の経営者達は皆「雇用を守るのが社長の最大の務め」と説いていた。止むを得ずリストラに踏み切る時はインタビュー中に涙を流した。だが、最近はそうではない。社会福祉ですら投資の対象にしている。また、よく言われることだが渋沢は財閥を作らなかった。企業は社会全体のものと考えた。今日、渋沢から学ぶべきことは多い。
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清風亭
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29 清風亭 |
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大正15(1926)年に、渋沢の後に第一銀行頭取になった佐々木勇之助の古希(70)を記念して建てた洋館。県指定有形文化財。
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30 清風亭 |
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大正12の関東大震災を契機に構造が煉瓦造りから鉄筋コンクリート造りに代わって行ったが、その初期のスペイン風洋館。ぜひともご覧いただきたい洋館である。
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31 市長がお見送り |
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公民館正面で観光バスを小島深谷市長がお見送り。ご苦労様です。
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日本煉瓦史料館
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32 日本煉瓦史料館 |
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明治20(1887)年、渋沢は日本煉瓦製造会社を設立。写真は門扉の社章。明治40(1907)年の「ホフマン輪窯(国指定重要文化財)」は破損がいちじるしく、現在は非公開。深谷市上敷免28-10。
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33 事務所棟 |
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明治21(1888)年ドイツ人煉瓦技師チーゼの居宅兼事務所として建て、現在は史料館に活用している。国指定重要文化財。金曜日と日曜日に公開。
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34 展示室 |
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35 工場全景の模型 |
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36 東京駅の請求書 |
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東京駅に納入した煉瓦の請求書。
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37 諸井恒平(左)と渋沢(右)の像 |
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諸井恒平は初代社長でのちに秩父セメントを創業。渋沢と親戚だ。
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38 土台に煉瓦 |
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39 旧変電室 |
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明治39年に市内で最初に電灯線を引き、変電室として建てた。国指定重要文化財。
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40 刻印の付いた煉瓦 |
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