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吉備路 Kibiji (Northwestern Okayama and Soja area) New Work |
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01-09 岡山城戦国の梟雄、宇喜多直家は謀略を駆使して備前を掌握、天正元(1573)年現在の岡山市石山に城を築いた。その頃、織田信長が破竹の勢いで勢力を拡大、室町幕府15代将軍の足利義昭を京から追放した。直家にも秀吉の調略の手が伸びて秀吉の傘下に入るが、天正9(1581)年に直家は病没する。妻の「福」は8歳で家督を継いだ秀家を秀吉の養子にして家の存続を図った。秀家は秀吉に可愛がられ、前田利家の娘、豪を嫁に迎えて57万4千石の大名に出世する。そこで57万石にふさわしい城をと、8年をかけて岡山城を拡張して慶長2(1597)年にはほぼ完成するが、翌年に秀吉が亡くなって状況は一変する。石田三成と徳川家康が激しく対立、慶長5(1600)年の関ケ原合戦で秀家は西軍に属してすべてを失う。豪は前田家に戻され宇喜多家は改易の処分を受けた。秀家は斬首されるところを前田家の懇願で命は助けられたが、二人の子供とともに伊豆八丈島に配流になった。悲劇だった。その後、前田家は明治維新で宇喜多一族が赦免されるまで、八丈島に生活物資の仕送りを続けている。 |
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01 旭川から見る岡山城 |
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旭川を天然の外堀とした。![]() |
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02 岡山城 内下馬門跡の石垣 |
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池田家が築いたという石垣。![]() |
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03 岡山城 大納戸櫓跡の石垣 |
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関ケ原合戦後に小早川秀秋が造り、のちに池田家が改修した石垣。![]() |
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04 岡山城 不明門(あかずのもん) |
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表書院から本丸に通じる門。池田家の時代、普段は別の通路を利用して通常は 閉ざされ、そのために不明門の名が付いた。明治に入って取り壊されたが昭和41(1966)年に天守閣と同時に再建された。![]() |
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05 岡山城 天守閣の礎石 |
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元の位置にコンクリートで再建したため、出土した礎石が不要になった。そのため本丸内に出土した礎石を並べて当時の様子を再現している。![]() |
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06 岡山城 塀の鉄砲狭間 |
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07 岡山城 金の鯱 |
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旭川の向こうに池田家2代藩主、綱政が元禄13(1700)年に造った大名庭園「後楽園」がある。![]() |
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08 岡山城 月見櫓 |
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元和(1615)から寛永年間(1643)の建築と見られ、空襲でも焼け残った。この頃の池田家4代藩主、忠雄(ただかつ)の父は織田信長の近習の池田輝政で、母は家康二女の督姫だから筋金入りのエリートだ。国指定重要文化財。![]() |
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09 岡山城 穴蔵 |
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非常用食糧の保存に使われたと見られる穴。月見櫓のわきにある。![]() |
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10-13 備中高松城 天正10(1582)年、3~5千名の将兵が籠る高松城を秀吉勢2万、宇喜多勢1万の計3万の軍勢で取り囲んだ。城は沼地に囲まれた天然の要害だから攻略は困難かに見えた。しかし、秀吉は常人が考え付かない発想をする男でしかも土木工事の天才だった。農民に銭を与えて約2.6キロの長大な土塁をわずか12日間で築いて、梅雨時の長雨を利用して城を水没させるという奇想天外な作戦を取った。城兵は籠城1ヶ月で飢餓に追い込まれ、足元には水が押し寄せた。これでは戦にならない。 |
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10 備中高松城全景 |
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大海の中の小島のような地形を土塁で囲っただけで、城というよりも「砦」の語感に近い。中世の平城は周囲を泥田で囲んで大手門に至る道を一本道にして、大部隊での一斉攻撃を防ぎ、馬も人も泥に足を取られて身動きが出来ないようにする所が普通だった。![]() |
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11 備中高松城 本丸広場 |
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12 備中高松城 清水宗治の首塚 |
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明治末年に改葬した。![]() |
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13 備中高松城 清水宗治の辞世の句 |
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「浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して」![]() |
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14-35 足守藩の城下町(岡山市北区足守地区) 豊臣秀吉の妻「ねね」は秀吉の織田家の同僚、杉原家定の妹で、当時「木下藤吉郎」と名乗った秀吉と所帯を持った。ちなみに「ねね」の妹は浅野長政に嫁いでいる。そして秀吉の出世に伴って家定も「木下」姓を称した。「ねね」も秀吉の更なる出世で「北の政所」と呼ばれるようになり、家定は北の政所の実家として2万5千石の播磨姫路城主になっていた。だが、秀吉が亡くなって石田三成と徳川家康の対立が激化、関ケ原合戦に発展するが、高台院と名乗っていた「ねね」は中立の立場をとる。家定もそれにならった。 |
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14 足守藩の城下町 城下町の街並み |
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足守街並み保存地区。![]() |
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15 足守藩の城下町 旧足守藩侍屋敷遺構 |
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国家老の杉原家の屋敷で昭和48年に岡山市に寄贈。家老職の格式の残る建物で、写真右側の小さい門は藩主専用の御成門。屋敷全体が県指定重要文化財。岡山市北区足守752。![]() |
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16 旧足守藩侍屋敷 母屋 |
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17 旧足守藩侍屋敷 表座敷 |
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18 旧足守藩侍屋敷 台所 |
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19 旧足守藩侍屋敷 竈 |
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20 旧足守藩侍屋敷 土蔵 |
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21 足守藩の城下町 旧木下権之助屋敷表門 |
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足守小学校の敷地内。弘化3(1846)年築の藩主一門「北木下家」の表門。明治時代は足守小学校の正門に使用した。市指定重要文化財。岡山市北区足守789。![]() |
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22 足守藩の城下町 旧木下権之助屋敷表門の窓 |
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23 足守藩の城下町 旧商家 |
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24 足守藩の城下町 旧商家 |
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25 足守藩の城下町 旧商家 |
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26 足守藩の城下町 旧藤田千年治(ふじたせんねんじ)邸 |
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江戸時代末の商家の建物。明治に入って藤田千年治が醤油製造販売を営んだ。市が改修して公開している。岡山市北区足守916。![]() |
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27 旧藤田千年治邸 大福帳 |
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28 旧藤田千年治邸 醤油樽 |
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29 旧藤田千年治邸 梁 |
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30 旧藤田千年治邸 職人の前掛け |
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31 旧藤田千年治邸 看板 |
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32 足守藩の城下町 緒方洪庵像 |
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鍛冶山のふもと、海禅寺わきの洪庵の生家跡にブロンズ像と顕彰碑がある。文化7(1810)年、藩士の家に生まれ、大阪に出て蘭方医、中天遊に、その後は江戸の坪井信道に蘭学を学び、長崎に遊学して天保9(1838)年29歳で大阪に「適塾」を開いた。天然痘予防の「除痘館」を設置して種痘を施し、足守にも藩主の招きで嘉永3(1850)に除痘館を設置、種痘を施した人々の数は5,000名に及ぶと言う。顕彰碑の下には「元服の際の髪と臍の緒」が納められている。県指定史跡。岡山市北区足守![]() |
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33 足守藩の城下町 旧足守藩陣屋跡 |
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建物はすでになく、小さな堀のみが残る。![]() |
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34 足守藩の城下町 木下利玄(りげん)生家 |
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利玄(本名、としはる)は明治~大正の歌人。明治19(1886)年、藩主一族に生まれて5歳で叔父の12代藩主、木下利恭(としゆき・子爵)の養子に行って木下宗家を継いだ。13歳で和歌を佐々木信綱に学び、明治43(1910)志賀直哉、武者小路実篤らと「白樺」を創刊。大正14(1925)年、40歳の若さで世を去った。建物は陣屋の並びにあり、もと藩庁の一部という。県指定史跡。![]() |
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35 足守藩の城下町 近水園「吟風閣」 |
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御殿山(宮路山)を背景に足守川の水を引き入れた小堀遠州流の大名庭園、近水園(おみずえん)の建物。6代藩主、木下?定(きんさだ)が、宝永5(1708)年、京都の仙洞御所を造営した際の残材を運んで建てたという。岡山県には他に大名庭園として岡山藩「後楽園」津山藩「衆楽園」がある。県指定名勝。岡山市北区足守803。![]() |
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36-38 鬼の城(きのじょう) 昭和53(1978)年からの学術調査で、総社市奥板の標高約400mの鬼城山(きじょうざん)の山頂付近から外郭や礎石などの遺構が出土した。古代の山城と確認されて昭和61(1986)年に国指定史跡になった。城壁を高石垣と土築で築き、雨水の浸透による崩落を防ぐための敷石を敷いている。スケールの大きさと古代土木技術の水準の高さに驚かされる。この位置からは高梁川河口の酒津と水島灘が遠望出来るという。西門と呼ぶ城門とこれに対する攻撃を防ぐための角楼が復元されている。岡山県総社市奥板1762。参考サイト「岡山県古代吉備文化財センター」 |
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36 鬼の城「西門」 |
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平成16(2004)年に復元された門。![]() |
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37 鬼の城 西門 |
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下から見上げる門。![]() |
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38 鬼の城 敷石 |
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一面に敷かれている。![]() |
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39 鬼の城 角楼 |
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西門への攻撃を阻止するためと思われる城壁を復元した。張り出し部をもつこの遺構を角楼と呼び、出土は日本で初めてのことだという。上に構造物があったかどうかは不明。![]() |
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40-42 吉備津神社 備前、備中、備後の「一の宮」である。昔、百済から来た皇子が鬼の城に住み着いて里の人々に悪さをした。人々はその皇子を「温羅(うら)」と呼び、恐れたが、都から来た吉備津彦が戦って勝ったという伝説がある。桃太郎伝説と関連があるとかで、一帯に遺跡と言い伝えがあるそうだ。国宝の本殿と拝殿は過去に2回火事で焼け、現在の社殿は室町時代の将軍義満の時代、応永32(1425)年に再建された。岡山市北区吉備津931。 |
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40 吉備津神社 社殿 |
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京都の八坂神社に次ぐ大きさである。屋根は出雲大社の約2倍の広さといい、その壮麗さは圧巻。![]() |
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41 吉備津神社 新緑と社殿 |
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42 吉備津神社 回廊 |
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天正7(1579)年に自然の地形に沿ってそのまま一直線に建てた回廊で全長360m。その長さに度肝を抜かれた。一見の価値あり。県指定重要文化財。![]() |
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43 「軍師 官兵衛」 |
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今年のNHK大河ドラマは「軍師 官兵衛」。JR吉備線吉備津駅のホームで電車を待っていると、反対側に偶然「軍師 官兵衛」のラッピング車両が来た。官兵衛の家は、祖父、黒田重隆の代に備前福岡から播磨に行って小寺家に仕えた。秀吉の中国平定に官兵衛は早くから従い、軍師を務めた。何度も何度も播磨から備前、備中と調略に駆けずり回ったに相違ない。![]() |
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