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2014年8月7日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
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 伊勢松阪の建物   Buildings of Matsusaka, Ise District   New Work


テレビ番組で伊勢松阪に「御城番屋敷」と呼ぶ武家屋敷街があるのを知った。松阪城は豊臣秀吉の時代の蒲生氏郷による築城だが、氏郷は会津若松に転封して江戸時代は紀州藩領だった。紀州藩士が常駐し、屋敷街を現在も子孫の方々が維持管理しているという。その内の一軒を市が借り受け、復元整備して公開している。石畳を挟んで槇(マキ)の生垣を巡らせた家並みはタイムスリップしたようで、借家は人気があるというのも頷ける。近くには町奉行所役人の同心町も残っている。

江戸時代、松阪から三井、小津、長谷川家の大商人が出て松阪三大豪商と呼んだ。江戸の大伝馬町はその大半が伊勢出身者の店で、中でも松阪商人が多かった。「江戸名物、伊勢屋、稲荷に犬の糞」という言葉が生まれた位だ。そしてこの三家が現在も東京で企業として続いているというのは驚くべきことである。

中でも三井は抜きん出ている。三井広報委員会のホームページによると、家租の三井高利は元和8(1622)年に生まれて延宝元(1673)年52歳の時に江戸(日本橋)本町1丁目に「三井越後屋呉服店」を開業、京都にも仕入店を置いた。越後屋を名乗ったのは武家出身の祖父の高安の官職が越後守だったからと言うが、店頭での「現金掛け値なし販売」は江戸市中の人気を博した。天和3(1683)年、店舗を駿河町に移転し、新たに両替店を開いて幕府御用達の両替商になった。幕末から明治にかけて、三井の大番頭と呼ばれた三野村利左衛門、旧三井物産初代社長の益田孝らは渋沢栄一と共に日本の近代化に大きな役割を果たしている。

なお、江戸時代までは「松坂」だったが、明治22(1889)年の町制施行で「松阪」になった。

使用カメラ:ニコンD800, D3200. レンズ:FX16-35mmf/4, 24-85mmf/3.5-4.5 VR, 70-200mmf/4.



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01-03 御城番屋敷街
槇(マキ)の生垣が美しい。城を警備する代々の紀州藩士の長屋の役宅である。松阪市殿町1385。長屋2棟は国指定重要文化財。

01 御城番屋敷街

02 石畳を挟んだ屋敷街 正面に松阪城の石垣が見える。

03 城跡から見る屋敷街


04-06 公開屋敷
屋敷の1軒を市が借りて公開している。

04 正面

05 土間

06 座敷


07 松阪城


07 「表門」付近 戦国時代の天正16(1588)年に蒲生氏郷が築いた平山城で、氏郷は近江国の出身で築城の名手だったと言われる。素人目にも石垣は緻密に石が組まれてその大きさと堅固さには驚かされた。江戸の初め頃には建物はすでになく、江戸時代は紀州徳川家が陣屋を置いた。城跡は国指定史跡。


08-10 本居宣長(もとおりのりなが)記念館
宣長は木綿商の家に生まれたが、医術を学び、開業しながら古典の研究に没頭した国学者だ。代表作に「古事記伝」。その書斎「鈴屋(すずのや)」はあまりに有名。松阪城内の松阪市殿町1536-7。

08 本居宣長像 宣長の弟子で版木職人の植松有信(うえまつありのぶ)旧蔵の像。

09 本居宣長日記 13歳から亡くなる72歳まで日記を付けた。国指定重要文化財。

10 鉄鈴(てつれい) 宣長が京都で古い物を模して作らせた。


11-14 本居宣長旧宅
記念館の隣にある。国指定特別史跡。

11 旧宅正面 宣長の祖父が元禄4(1691)年に隠居所として建てた。宣長は12歳から亡くなる72歳までこの建物に住んだ。元は魚町にあったが、保存のために明治42(1909)年に現在地に移築。2階の座敷が「鈴屋」だが見学は1階部分のみ。

12 座敷

13 潜り戸

14 階段 2階の書斎「鈴屋」に行く元の階段。


15-19 歴史民俗資料館
明治45(1912)年築の図書館を昭和53年に資料館に衣替えした。松阪市殿町1539。国登録有形文化財。

15 資料館外観

16 煙草入れの看板

17 看板

18 機織り機

19 松阪木綿 松阪は古くから木綿の産地で「松阪縞」は江戸の庶民に人気があった。歌舞伎役者が縞の着物を着ることを「マツサカを着る」と表現するそうだ。


20 三井家発祥の地


20 三井家発祥の地 三井高利の生家跡で産湯の井戸が現存するが非公開。松阪市本町2214。


21-22 旧長谷川邸
魚町と殿町にかけての広大な敷地を持つ、三井・小津家と並ぶ商家。江戸から大正時代にかけての屋敷、土蔵、庭園がある。長谷川家は、現在東京日本橋本町に不動産の「マルサン長谷川株式会社」として存続する。屋敷の公開は毎月第3金曜日のみで、今回は残念ながら見学出来なかった。市指定史跡。

21 旧長谷川邸 すき焼き店「牛銀本店」が経営するお向かいのお休み処「茶房 牛銀番茶亭」2階から見た長谷川邸。網入りガラス越しの撮影。

22 旧長谷川邸 カメラを構えていると「牛銀番茶亭」のお姉さんが偶然通りかかって、最高の笑顔を振りまいてくれた。これぞ、シャッターチャンス!


23 本居宣長旧宅跡


23 本居宣長旧宅跡 旧宅は明治42年に松阪城内に移築したがその跡地。宣長の長男、春庭が住んでいた家と土蔵が残り、長谷川邸の斜め前にある。松阪市魚町1645番地。国指定特別史跡。


24-29 「松阪商人の館」
17世紀末から18世紀初頭の建物で、明治にかけて増改築された旧小津清左衛門家住宅。承応2(1653)年に江戸大伝馬町に店を構えた江戸一番の紙問屋で、現在も日本橋本町で小津産業株式会社として続き、特に和紙の扱いで知られる。松阪市本町2195。建物は県指定有形文化財。敷地は市指定史跡。

24 松阪商人の館外観

25 店内

26 竈

27 鱗久(うろこきゅう)の
   暖簾(のれん)
創業以来の暖簾を今に守っている。

28 中庭

29 蔵


30-31 赤壁(せきへき)の校舎
明治41(1908)年に旧三重県立工業学校製図室として建った。当時、実験に使用する硫化水素で建物の塗料が黒変すると考えられたために外壁を朱(硫化水銀)で塗った現存する唯一の赤壁校舎。平成20年度に経済産業省の「近代化産業遺産」の指定を受けた。現、三重県立松阪工業高等学校敷地内。松阪市殿町1417。

30 赤壁の建物

31 赤壁の建物


32-40 原田二郎旧宅
松阪市殿町1290。御城番屋敷街から5分程の武家屋敷街にある。市指定有形文化財。

32 座敷 七石二人扶持の奉行所同心の役宅。原田は幕末の嘉永2(1849)年に生まれて維新後に東京で英語と医術を学んだ。大蔵省に勤務の後に31歳で横浜の第七十四国立銀行(のちの横浜銀行)の頭取になるが、2年で辞職して松阪に帰った。明治35(1902)年には井上馨の依頼で鴻池銀行(のちの三和銀行)の再建に当たり成功させた。大正9(1920)年に全財産を拠出して公共福祉を目的に「原田積善会」を設立、原田は昭和5(1930)年に82歳で死去したが、会は現在も存続している。

33 原田の説明

34 屋根裏

35 道路に面した庭

36 2階を増築 横浜の第七十四国立銀行を辞職して帰郷した際に増築。

37 2階座敷

38 2階座敷

39 丸窓 城に面してかつてはそこに堀があった。

40 大隈重信から贈られた座布団 明治8年頃の大隈は大蔵卿で井上馨や渋沢栄一らと殖産興業政策を推進する真最中だ。


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