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2015年8月28日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
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 前橋城   Maebashi Castle   New Work


天正18(1590)年、関東に入封した徳川家康は、各地に譜代の重臣を配置、城持ち大名にした。北関東では高崎城に井伊直政(初めは箕輪城)、館林城に榊原康政、川越城に酒井重忠、大胡城に牧野康成を入れた。そして慶長5(1600)年、関ヶ原合戦を終えて酒井を前橋城に移した。なお、当時は前橋のことを厩橋(うまやばし)と呼んでいたが、のちに前橋と名を変え、酒井家は9代続いて姫路に転封している。

幕府は、江戸時代を通じ、一部の有力外様大名を除いて大名を頻繁に転封させたが、なかには大名自身が様々な理由から転封を自ら幕閣に働きかける場合があった。酒井家の転封も財政上の理由で希望したと言われる(Web-ProPhoto写真展「姫路城」参照)。

この前橋から姫路に行った酒井家を朝廷の官職名から「雅楽頭(うたのかみ)酒井家」と言い、庄内藩の酒井家を「左衛門尉酒井家」と呼ぶ。この左衛門尉酒井家は、徳川四天王の一人、酒井忠次の家系で、初め下総臼井で3万石、やがて庄内鶴岡に14万石で転封して幕末を迎えた。

前橋藩の雅楽頭酒井家の石高は、初代、重忠が3万3000石、子の忠世の時代から12~15万石だった。親藩は別格として、譜代藩は2~3万石が普通だから堂々の大藩である。

酒井重忠の子、忠世は大阪の陣に出陣、秀忠に仕え、老中として初期幕閣で重きをなした。その孫が4代将軍、家綱の代の大老、酒井忠清だ。屋敷が江戸城大手門の下馬札前にあるため、下馬将軍と呼ばれ、絶大な権力をふるった。だが、綱吉が5代将軍になって失脚している。

この酒井家の前橋藩は9代150年間続き、寛延2(1749)年に姫路に転封、前橋城には親藩の越前松平氏が入封した。ところが利根川の浸食で城の土台が崩落、川越城に移り、幕末に再び前橋に城を築城したものの、半年後に明治維新を迎えた。
使用カメラ:ニコンD7200, D5300. D610, D750. レンズ:DX 10-24mmf/3.5-4.5G, 18-300mmf/3.5-6.3G, FX 18-35mmf/3.5-4.5G, 24-120mmf4G, 70-200mmf4G.

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01 前橋城の土塁

02 前橋城址碑 県庁の隣り、群馬県警察本部脇の土塁の上。

03 利根川 度々の氾濫で城の土台が崩落した。県庁32階フロアから撮影。

04 虎姫観音堂 虎姫の怨霊が水害を招いたという伝説があり、霊を慰めようと利根川沿いにお堂を建てた。前橋市大手町1-13。

05 城の復元図


06-07 昭和の群馬県庁舎
旧三の丸跡地に昭和3(1928)年に建設。当時最先端の洋風建築だった。前橋市大手町1-1-1。

 06 昭和の群馬県庁舎

 07 昭和の群馬県庁舎

08 NHK「花燃ゆ」大河ドラマ館 昭和の群馬県庁舎内。長州藩士、小田村伊之助、のちの楫取素彦(かとりもとひこ)が、維新後に県令として赴任、その執務室を再現した。

09 群馬会館 昭和5年、昭和天皇の即位を記念して建てた県内最初の公会堂。国登録有形文化財。前橋市大手町2-1-1。

10 車橋(くるま橋)門跡 前橋城の遺構は土塁とこの門跡のみ。通りに面した日経新聞社ビルの地下に石垣が埋まっている。市指定史跡。前橋市大手町2-5-3。


11-22 臨江閣
明治17(1884)年に県令、楫取素彦の提言で建設した迎賓館。 明治、大正天皇も滞在した。昭和20(1945)年から29(1954)年まで市の仮庁舎に使用、最近までは公民館別館だった。本館と茶室は県指定文化財、別館は市指定文化財。前橋市大手町3-15。

 11 臨江閣

 12 臨江閣

 13 臨江閣

 14 臨江閣

 15 臨江閣

 16 臨江閣

 17 臨江閣

 18 臨江閣

 19 臨江閣

 20 茶室

 21 茶室

 22 茶室

23 酒井忠清の墓 酒井重忠、忠世、忠行、忠清と続いた4代藩主、忠清の墓。龍海院の墓域に前橋藩初代、重忠から8代までと、姫路藩に転封した9代から15代まで、一族の墓石が並んでいる。酒井家の墓域全体が市指定史跡。前橋市紅雲町2-8-15。


24-28 上泉城跡
戦国時代初期の大胡氏一族である上泉氏の館跡。新陰流の祖で剣聖と謳われた上泉伊勢守信綱誕生の地。藤沢川と桃木川に挟まれた河岸段丘にある。全体が県指定史跡。前橋市上泉町1168-1。

 24 上泉伊勢守信綱像 信綱は永正5(1508)年生まれ、剣を学び、伊勢守秀綱、武蔵守信綱と名乗った。戦国時代の北関東は弱小の武士団が群雄割拠、上泉伊勢守は箕輪城の長野業政を助けて甲州の武田信玄と戦った。長野氏の滅亡後13代将軍足利義輝に兵法を指南、柳生宗厳(石舟斎)に印可を授けた。平成20(2008)年、生誕500年を記念して建てた。

 25 本丸の郷蔵 江戸時代の寛政8(1796)年、前橋藩の「貯穀令」で建てた飢饉等に備えて穀類を保管した建物。明治42(1909)年まで使用、郷蔵の関係古文書も保管されている。

 26 本丸全景

 27 上泉伊勢守墓所 一の郭内、西林寺本堂の裏手にある。前橋市上泉町1145-1。

 28 玉泉寺 出丸跡の寺。写真の土手は土塁と思われる。前橋市上泉町952-1。


29-36 大胡城跡
戦国時代初期に大胡氏が築城した平山城。関東で越後上杉氏、甲州武田氏、小田原北条氏が三つどもえで戦った時代、物語によくその名が登場する城である。家康が関東に入り、重臣の牧野康成が天正18(1590)年に入封、子の代で越後に転封した。その後は前橋藩の管轄下にあった。丘陵地帯を利用した中世の城の形態をよく残している。県指定史跡。前橋市河原浜町660-1。

 29 入口付近 竹林が物凄かった。

 30 土塁と虎口

 31 本丸跡

 32 枡形門跡

 33 石垣跡

 34 城の遠景

 35 城の遠景

 36 城の遠景


37-38 養林寺
牧野康成が浄土宗の寺を建て、菩提寺とした。康成は徳川四天王の一人である酒井忠次隊に属した人物。関ケ原合戦の時は中山道を往く秀忠の軍にあり、上田で真田に阻まれ合戦に間に合わなかった。牧野の子、忠成はのちに越後長岡に転封、長岡藩は幕末、戊辰の役で、河合継之助の指揮で、武装中立を目指し、何度も官軍を撃退するが最終的には敗れた。太平洋戦争での山本五十六も長岡藩士の家庭に生まれた。前橋市堀越町1256。

 37 山門 江戸時代初期の建築。

 38 牧野家墓地 康成を真中に一族7基の墓石がある。市指定史跡。

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