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2016年3月9日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
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 熊本洋学校教師館ジェーンズ邸   New Work
 Teacher's House of Kumamoto Western School



熊本県指定重要文化財の「ジェーンズ邸」は明治4(1871)年に建った。群馬県富岡製糸場と同時期の建設だ。アメリカのウエストポイント陸軍士官学校卒の軍人、L.L.ジェーンズを招き、文学、数学、地理などを教えた。授業はすべて英語で開校2年目からは男女共学。当時としては極めて異例の学校と言っていい。

だが、ジェーンズがキリスト教をも教えたことで批判を受け、明治9(1876)年、学校は閉鎖される。学生達はジェーンズの勧めで京都に設立された新島襄の同志社に進学、「熊本バンド」と呼ばれた。

明治10(1877)年、西南戦争でジェーンズ邸は征討総督の有栖川宮熾仁親王の宿舎になった。そこへ佐賀藩士出身で、大坂の適塾に学んだ佐野常民(さのつねたみ)と、元幕府老中格の大給恒(おぎゅうゆずる)の二人の元老院議官が、敵、味方の区別なく傷病兵の治療を行うべく親王に請願、許可を得る。同年5月に「博愛社」を設立、明治20(1887)年に「日本赤十字社」に発展、佐野が初代社長、大給が副社長に就任した。ジェーンズ邸は「日本赤十字発祥の地」になった。

佐野は慶応3(1867)年のパリ万国博に行っている。幕府代表の徳川昭武の一行と、薩摩藩と共に、佐賀藩士の一人として行き、国際赤十字の存在を知ったという。昭武の一行には同じ「適塾」出身の幕府奥医師、高松凌雲と、会計係の渋沢栄一がいた。

ちなみにこの時の通訳官は文政11(1828)年に国外退去処分を受けたシーボルトの息子、アレクサンダー・シーボルトである。シーボルト事件からはや39年の月日が経っていた。佐野は6年後の明治6(1873)年にウィーン万国博にも行き、翌年に帰国、元老院議官に就任していた。

慶応3(1867)年のパリ万国博から帰った高松は榎本武揚が籠る函館五稜郭に行き、敵味方の区別なく治療を施した。明治12(1879)年には渋沢らの協力を得て民間救護団体「同愛社」を設立、渋沢も明治7(1874)年から「養育院(現、東京都健康長寿医療センター)」の運営に関与、多くの孤児の世話をした。なんと渋沢は院長を約50年間も務めている。
参考サイト
 日赤発祥の地・熊本
 http://www.kumamoto.jrc.or.jp/kumamoto/k40
 赤十字について
 http://www.jrc.or.jp/about/history/

使用カメラ:ニコンD610, D750. レンズ:AF-S 24-85mm f/3.5-4.5G ED VR, AF-S 70-200mm f/4G ED VR.


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01-20 ジェーンズ邸
3回移築され、現在地は熊本市水前寺公園22-16。

 01 ジェーンズ邸正面

 02 2階バルコニー

 03 ブドウの彫刻

 04 ジェーンズの写真と暖炉

 05 本箱

 06 椅子

 07 同志社時代の熊本バンドと
   外国人

 08 同志社時代の熊本バンドと
   新島襄
新島は後列の左から3人目。

 09 消毒容器

 10 西南戦争で使用した戸板と
  「もっこ」
患者を運んだ。

 11 雑誌「博愛」 大正9-12(1920-23)年代の日赤の機関誌(個人提供)。

 12 雑誌「日本赤十字」 明治30-41(1897-1908)年代の機関誌(個人提供)。

 13 有栖川宮熾仁親王 幕末、孝明天皇の妹の和宮と婚約したが、公武合体で和宮と家茂の婚儀が決まり、破談にされた。戊辰戦争で東征大総督として西郷と江戸に向かい、皮肉にも西南戦争で西郷と対峙した。ジェーンズ邸で佐野の請願を快諾、のちに日赤の初代総裁に就任。

 14 許可を得た記念の部屋

 15 階段

 16 階段

 17 窓

 18 窓

 19 色ガラス

 20 「愛の手とこしえに」の彫刻 日赤が創立100周年にあたり赤十字活動の発展を祈念。

21 夏目漱石の家 明治29(1896)年、漱石は熊本第五高等学校に赴任、6回転居した3番目の家で、わずか7か月の滞在とか。元は旧大江村にあったのを、昭和47年にジェーンズ邸敷地内に移築。


22-24 熊本大学工学部資料館
明治41(1908)年築の熊本高等工業学校の「機械実験工場」。熊本大学の工学部中央工場に使用。公開は毎月第3金曜日のみ。国指定重要文化財。熊本市中央区黒髪2-39-1。

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25 旧制第五高等中学校表門 明治22(1889)年頃の建築で、現在は熊本大学黒髪北キャンパスの正門。熊本大学工学部資料館から見て道路を挟んで反対側。明治29(1896)年に赴任した夏目漱石は「いかめしき門を入れば蕎麦の花」という句を詠んだ。国指定重要文化財。

26 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
   のレリーフ
ハーンは明治24(1891)年から約3年間、旧制第五高等中学校の教師を務め、レリーフは平成16(2004)年の制作。


27-28 五高記念館
明治22(1889)年完成の旧制第五高等中学校本館。旧会津藩の佐川官兵衛は、西南戦争で現在の南阿蘇村で戦死した。本館が完成した翌年、旧会津藩公用方、秋月悌次郎(ていじろう)が67歳で教壇に立ち、感慨深いものがあったと思われる。ハーンは秋月のことを「神のような人」と評したという。室内の撮影は不可。国指定重要文化財。熊本市中央区黒髪2-40-1。

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29-30 第五高等学校化学実験場
本館と同じ明治22(1889)年の建築。国指定重要文化財。

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31-35 夏目漱石内坪井旧居
漱石が熊本で5番目に住んだ家。市指定史跡。熊本市中央区内坪井町4-22。

 31 庭から見る母屋

 32 座敷 漱石の人形が座っている。

 33 座敷 手前は観光客。若い女性が目立った。

 34 廊下

 35 洋間

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