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2016年8月9日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
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 武蔵国カメラ風土記44 関東の岩槻城   New Work
 Iwatsuki Castle in Saitama City, Saitama Prefecture



岩槻は日光御成道沿いの宿場町で、関東と東国の境の町だった。江戸時代、岩槻城の城主は高力、青山、阿部、板倉、戸田、松平、小笠原、永井氏と次々と交代、9代将軍、家重の代に上総勝浦藩から大岡忠光(ただみつ)が2万石で入封、幕末まで8代続いた。忠光は300石の旗本出身、家重に仕え、上総勝浦に1万石を与えられて大名になった。この大岡家は江戸南町奉行の大岡忠相(ただすけ)と同族。

忠光の菩提寺「龍門寺」に行き、その家臣の1人に尊王論を唱えて幕政を批判し、明和3(1766)年に死罪になった山県大弐(やまがただいに)がいたと知った。山県は甲斐国出身の儒学者で、医師でもある。一時期、勝浦藩で代官、岩槻藩で藩医をしていたという。著書「柳子新論」は幕末、吉田松陰らに影響を与えたとされる。

岩槻城は、元荒川(昔の荒川本流)沿いにあり、周囲は沼地に囲まれていた。築城は室町時代の終り頃、扇谷上杉定正(さだまさ)の重臣、太田道真と道灌親子による説、あるいは、忍城の成田氏とする説があり、判然としない。ただ、当時、岩槻側から荒川と利根川を渡ると扇谷上杉氏と対立する古河公方、足利成氏の勢力圏で、成田氏は古河公方に近い武士団だった。さらに、忍城は岩槻からも近い距離にある。

道灌は河越城、江戸城も築城したとされ、歌人としても知られている。扇谷上杉家の重臣として、その存在は大きかった。そのためだろう、山内上杉顕定(あきさだ)の讒言(ざんげん)に会い、下剋上を疑われ、相模の伊勢原にある主君、定正の館で謀殺されてしまった。

戦国時代に入ると、小田原北条氏が関東に進出、道灌の家系は江戸系太田氏と岩槻系太田氏に分かれ、一時期、岩槻城は北条氏の支配にあった。しかし、北条氏が秀吉に敗れ、成田氏は姿を消したが、道灌の末裔達は徳川家臣団に加わって幕末まで存続している。幕末まで7代続いた遠州掛川藩太田家5万石は、江戸系太田氏の家系で、5代藩主の太田資始(すけもと)は、堀田家から掛川藩に養子に入り、三度も老中に就任した。
参考サイト:武蔵国カメラ風土記17「のぼうの城」の忍城と成田氏
http://sniwa.web-prophoto.com/046musashi017.html

使用カメラ:ニコンD7200, D500. レンズ:DX 16-80mm f/2.8-4E ED VR, 55-200mm f/4-5.6G ED VR II.


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01-09 岩槻城址公園


 01 城址公園「八ッ橋」 「八ッ橋」と命名された赤い橋。

 02 城址公園「堀障子跡」 堀底に障子状に畝を設け「障子堀」と呼ぶが、今は埋め戻されている。ここの案内板は「堀障子」。戦闘が始まるとここに泥を注入することもあり、攻める側は難渋を極めた。現在の城全体の遺構は小田原北条氏時代と推定。

 03 城址公園「空堀跡」

 04 城址公園「お濠」

 05 元荒川の流れ 左岸が城址公園の河川敷。

 06 岩槻城黒門 三の丸の藩主居館の長屋門だったと推定されている。明治後、浦和の埼玉県庁正門に使用され、昭和45(1970)年に移築。岩槻区太田3丁目。市指定有形文化財。

 07 岩槻城黒門

 08 岩槻城裏門 墨書銘から、明和7(1770)年に大岡氏が建てた門と判明。ただし、城内のどこにあったかは不明。「裏門」とのみ伝えられる。昭和55(1980)年に市が寄贈を受け、黒門の脇に移築。岩槻区太田3丁目。市指定有形文化財。

 09 人形塚 岩槻の人形作りは江戸時代の初めから盛んだった。岩槻城黒門前の道路を挟んで反対側。


10-11 愛宕神社
北条氏は小田原城をぐるりと囲む長大な土塁を構築「大構(おおがまえ)」と呼び、濠底は障子堀にした。ここ岩槻でも城内と城外を一体化して土塁を構築、一部が残って、神社がその上に鎮座する。さいたま市岩槻区本町3-21-25。市指定記念物(史跡)。

 10 愛宕神社正面

 11 神社裏手から見る

12 時の鐘 寛文11(1671)年に当時の岩槻城主阿部正春(あべまさはる)が設置、現在の鐘は享保5(1720)年に永井直陳(ながいなおのぶ)が改鋳。さいたま市岩槻区本町6-229-1。市指定文化財(工芸品)。


13-22 遷喬館 (せんきょうかん)
寛政11(1799)年、岩槻藩大岡家の儒学者「児玉南柯(こだまなんか)」が54歳の時に開いた儒学の私塾。藩の子弟を教育して文化2(1805)年~文化8(1811)年頃に藩校に。明治4(1871)年に廃藩置県で廃校、民家に使用されていたが、平成15(2003)~18(2006)年に解体修理をして当時の姿に復原。埼玉県にひとつだけ残った藩校の建物。さいたま市岩槻区本町4-8-9。県指定史跡。

 13 茅葺屋根とサルスベリ

 14 門

 15 式台 上級武士が使用した玄関。

 16 教場 講義をした座敷。

 17 教場

 18 床の間

 19 児玉南柯自画像(複製) 実物は岩槻郷土資料館が保管。

 20 格子の窓

 21 建物表側

 22 建物裏手


23-33 岩槻郷土資料館
アールデコの建築様式を持つ昭和5(1930)年築の岩槻警察署旧庁舎。岩槻区で最初の鉄筋コンクリート製の建物とか。生活用品から古文書まで幅広く展示。さいたま市岩槻区本町2-2-34。国登録有形文化財に登録を予定。

 23 外観

 24 アーチ状の窓

 25 正面入口

 26 重厚な柱

 27 扉のガラスの装飾

 28 階段の親柱

 29 階段手摺の装飾

 30 遷喬館扁額

 31 北条氏房印判状(複製) 天正15(1587)年の「法華寺文書(もんじょ)」。当時の岩槻城主、北条氏房が、法華寺の諸特権を承認した文書。氏房は秀吉の小田原攻めで敗北、実兄の氏直と共に高野山に送られた。のち肥前唐津に配流され、同地で死去。法華寺文書は9点が県指定文化財。

 32 後醍醐天皇綸旨(複製) 元弘3(1333)年の「法華寺文書」。鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が法華寺の寺領支配を承認した文書。県指定文化財。

 33 岩槻城図 江戸時代の図を明治13(1880)年に模写。これを見ると浮城であったのが明らか。太田道灌築城の注釈がある。


34-36 芳林寺(ほうりんじ)
曹洞宗寺院。道灌の養子で岩槻系太田氏の資家(すけいえ)が、伊勢原から道灌の遺骨や遺髪を持ち帰り、越生町の龍穏寺と芳林寺に分骨して祀ったとされる古刹。岩槻藩初代藩主、高力正長の墓もある。さいたま市岩槻区本町1-7-10。

 34 太田道灌像 平成19(2007)年建立の新しい道灌像。

 35 太田氏資(うじすけ)廟 氏資は、岩槻系太田氏、資正(すけまさ)の嫡男で、北条氏康の娘婿。系図を見ると道灌から見て5代目。反北条を主張する父と弟を追放、北条の軍に加わり、永禄10(1568)年、上総国三船台で里見氏と戦い、戦死。

 36 太田氏資像


37-39 龍門寺
曹洞宗寺院。戦国時代の一時期、岩槻城は北条氏の配下で、天文19(1550)年、重臣の佐枝若狭守(さえだわかさのかみ)が、館(やかた)内に龍門寺を建立した。さいたま市岩槻区日の出町9-67。

 37 山門 市指定有形文化財。

 38 大岡忠光墓 市指定史跡。

 39 北条時代の土塁 当時、武将達はよく館内に寺を建立した。

40 屋根の鐘馗様 岩槻市内の老舗の和菓子屋で見かけた鐘馗様。

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