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2016年10月7日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
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 取手の本陣、染野家住宅   New Work
 Headquarters at Toride, the house of the Somenos in Toride City, Ibaraki Prefecture



水戸藩は、貞享4(1687)年に水戸街道「取手宿」の名主宅「染野家」を本陣に指定、建物が金、土、日に公開されている(茨城県取手市取手2-16-41)。水戸藩は江戸定府で藩主は江戸にいたから、参勤交代はないが、藩主のお国入りはある。時の藩主は大日本史の編纂を始めた2代、光圀。当時はどの藩も領内の街道の整備に努めていた。

やがて幕末、最後の将軍、15代、慶喜は、慶応4(1868)年1月3~6日の鳥羽伏見の戦いに敗北、江戸に帰り、上野寛永寺で謹慎した。しかし、慶喜が江戸にいると幕臣らが暴発する恐れがある。そのため水戸に向かった。

茨城県立歴史館のWebサイトに慶喜の一行が水戸に向かった時のルートと随行者の名前が出ている。4月11日、寛永寺を出発、松戸、藤代、土浦、堅倉で宿泊、15日に水戸に着いた。染野家で休息を取ったと思われるが、この時点で慶喜の処分がどうなるかは不明だ。染野家の人々はさぞや緊張を強いられただろう。

染野家の主屋は寛政7(1795)年築の入母屋造り。貴人を迎える式台が付いている。表門は文化2(1805)年築、昭和53年に大風で木が倒れて壊れたが修復された。昭和62(1987)年に市が史跡に指定して染野家は建物を市に寄贈、解体復元工事を経て平成8(1996)年に主屋と土蔵が県有形文化財に指定された。

明治4(1871)年「日本近代郵便の父」前島密(ひそか)の提言で東京・大阪間に郵便事業が始まり、政府は名主など資産家に郵便の取扱を命じた。染野家もこれを命じられ、玄関わきに郵便窓口が残っている。今、同様の窓口が残っているのは、東京都府中市の矢島家住宅・奈良県奈良市の松本家住宅・大阪府堺市の川口家住宅の3ヵ所とか。

土間で説明を読んで驚いた。明治政府は強盗除けに銃を配っていた。その銃を「郵便保護銃」と呼ぶ。富岡製糸場が完成したのが明治5(1872)年、まだ時代は安定していなかった。その頃、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが次々と下野、西国で「佐賀の乱」「熊本神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」が起きた。いわゆる「不平士族の乱」である。この士族の乱と関係はないが、実際に郵便強盗はあったらしい。

染野家の銃は市の埋蔵文化財センター(取手市吉田383)に展示されている。
茨城県立歴史館Webサイト
http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/

使用カメラ:ニコンD7200, D500. レンズ:DX 16-80mm f/2.8-4E ED VR, 55-200mm f/4-5.6G ED VR II.


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01 表門

02 土蔵 主屋と同時代の建築と思われる。

03 主屋

04 式台

05 中の間 式台を上がって正面の部屋

06 中の間 奥に見える部屋が三の間

07 三の間 大名の家臣達が控えた部屋

08 上段の間 大名が休息した部屋。書院造りになっている。

09 欄間

10 組子障子

11 ひょうたんの彫刻

12 違い棚

13 外廊下

14 外廊下

15 外廊下

16 外廊下

17 外廊下

18 礎石

19 土間

20 天井の梁

21 茶の間 家族が使用した部屋。

22 明治のガラス戸

23 水屋箪笥

24 「なんど」と「なかなんど」 納戸と中納戸。奥の部屋が中納戸。押入れと棚がある。

25 脇玄関 主屋の式台と家族の生活部分の土間の中間にある。主人や、客が出入りした玄関。家族と使用人は通常、土間から出入りする。

26 郵便窓口

27 郵便窓口

28 便窓口

29 庭から見た主屋

30 土壁

31 徳川斉昭の歌碑 慶喜の父、9代藩主の斉昭が、和歌を石に刻んで染野家に贈った。

32 郵便保護銃 埋蔵文化財センターで展示。

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