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2018年7月7日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
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 金沢から福井丸岡城、一乗谷朝倉氏遺跡   New Work
 Kanazawa City, Maruoka Castle and Ichijodani Asakura Remains



石川県金沢市の金沢城、兼六園と長町武家屋敷街に行った。武家屋敷街に多い時で1,200石の知行を受けていた野村家住宅が公開されている。1,200石は普通の藩では家老クラスの石高。代々、馬廻組頭や奉行職を勤めていた。

玄関に鎧がある。賤ヶ岳合戦に勝った秀吉は、前田利家に加賀を与えた。その翌年の天正12(1584)年、秀吉と敵対した越中の佐々成政が、突然、前田家の重臣、奥村永福(ながとみ)が守る能登の「末森城」を攻めた。この戦は加賀藩で後々まで語り継がれた激戦で、奥村勢の救援に駆け付けた野村伝兵衛が一番槍を付けた時の鎧という。

福井丸岡城は、はるか昔の学生時代に来た。全国に12ある現存天守閣のひとつで、柴田勝家の甥、勝豊が築き、春によく霧が発生するため「霞ヶ城」の別名がある。

大坂冬の陣の前年、慶長18(1613)年に本多成重が45,000石で城主になった。成重の父親は徳川家功臣の一人、本多作左衛門重次。重次は強直で怒りやすく「鬼作左」と呼ばれた人物だ。秀吉の勘気に触れて家康から茨城県取手市に蟄居を命ぜられ、文禄5(1596)年に亡くなっているから、重次の子に対する家康の温情だったのかも。

だが、この丸岡城本多氏はお家騒動を起して4代で改易された。当時の将軍は5代綱吉。三河以来の功臣の家でも許さなかった。丸岡藩には元禄8(1695)年、越後糸魚川から有馬清純が5万石で入国、幕末まで8代続く。

ところで、本多重次が長篠合戦の最中に陣中から妻宛てに書いた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の手紙は有名だ。お仙とは息子の仙千代(成重)の事。丸岡町は重次のこの短い手紙の故事から「日本で1番短い手紙」を募集して話題になった。

次に丸岡城から一乗谷朝倉氏遺跡に行った。朝倉氏は鎌倉時代に但馬国朝倉庄に居住、朝倉氏を称し、室町時代は越前守護の斯波氏に仕えた。その後、下剋上の時代に斯波氏を追放、越前国を掌握して一乗谷の城下を拠点に戦国大名として自立した。

やがて5代義景の時に織田信長と衝突、敗れて義景は自決、一乗谷の城下はすべてが焼き払われた。寺院、商家の多くは北の庄城、後の福井城下に移転したらしい。ちなみに、織田家も元々は斯波氏の家臣で、斯波氏の分国、尾張国の代官だった。

参考サイト:
  金沢武家屋敷跡「野村家」  http://www.nomurake.com/
  丸岡城   http://www.maruoka-kanko.org/400_special/010_castle/
  一乗谷朝倉氏遺跡   http://www3.fctv.ne.jp/~asakura/index.html

使用カメラ:ニコン D500, D7500. レンズ:AF-S DX 10-24mm f/3.5-4.5G ED, AF-S DX 16-80mm f/2.8-4E ED VR, AF-S DX 55-200mm f/4-5.6G ED VR II.


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01-06 金沢城と兼六園
前田利家が築城した金沢城は、室町時代の天文15(1546)年に建てられた大坂本願寺派「金沢御堂」の跡地に建っている。平成7(1995)年までは金沢大学のキャンパス。大学が移転して発掘調査の後、復元工事が行われ、平成13(2001)年から「金沢城公園」として公開。全体が国指定史跡で城内と兼六園の建物の殆どが国、又は県の指定文化財。兼六園は水戸偕楽園、岡山後楽園と並ぶ日本三名園の一つで国の特別名勝(金沢城・兼六園の管理事務所は金沢市丸の内1-1)。

 01 金沢城石川門 兼六園の真正面にある搦手の門で天明8(1788)年の再建。石川郡の方向を向いているのでこの名がある。昭和に大修理が行われ、金沢城と言えばこの門を思い浮かべる事が多い。

 02 金沢城五十間長屋 平成13年の復元。武器等を保管する倉庫に使用されていた。

 03 兼六園霞ヶ池「徽軫灯籠」
     (ことじとうろう)
兼六園の代名詞と言っていいほど有名な灯籠。

 04 兼六園「夕顔亭」 安永3(1774)年築の園内最古の茶室。藩政時代は「滝見の御亭」とも呼んだ。

 05 兼六園「噴水」 霞ヶ池を水源に19世紀中頃に造られた日本最古の噴水。

 06 兼六園「時雨亭」 平成12(2000)年に復元された茶室 。


07-15 長町武家屋敷


 07 武家屋敷街 屋敷の殆どが一般住宅。野村家住宅(金沢市長町1-3-32)のみ公開。

 08 大野庄用水 天正年間(1573-92)に、金沢城築城の資材運搬のために造られた用水。現在は市の中心部を流れる「犀川」から取水。武家屋敷街の土塀沿いに流れ、屋敷内庭園の曲水に利用されている。

 09 野村家「鎧」 「能登末森城の戦い」に使用された鎧。

 10 野村家「縁先の手水鉢」

 11 野村家庭園 外国の雑誌に紹介され、海外の観光客が大勢来ている。

 12 野村家庭園

 13 野村家仏間

 14 野村家二階の茶室

 15 野村家の九谷焼の大鉢


16-24丸岡城
丸岡城は戦国~江戸時代の現存12天守閣(北から弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、備中松山城、松江城、丸亀城、伊予松山城、宇和島城、高知城)の一つ。柴田勝家の「北の庄城(後の福井城)」築城が天正3(1575)年、翌年の天正4(1576)年、信長が安土城の築城を始め、丸岡城は同年に柴田勝家の甥、勝豊が築いた。戦国時代の真っ只中に建った城だ (福井県坂井市丸岡町霞1-59)。国指定重要文化財。

 16 丸岡城

 17 城内

 18 城内

 19 城内

 20 城内

 21 三階の天守最上階

 22 急な階段 思わず絶句するほど急な階段。見学者は縄を伝って上り下りする。

 23 一筆啓上の記念碑

 24 野面積みの石垣 戦国時代初期の自然石をそのまま積み上げた石垣。


25-39 一乗谷朝倉氏遺跡
元亀1(1570)年6月28日の近江国姉川の合戦で、朝倉、浅井の連合軍は、織田信長と徳川家康の軍に敗北。5代およそ100年間、越前国を支配した一乗谷の館と城下町は、天正元(1573)年、信長の命で徹底的に焼かれた。昭和42(1967)年からの発掘調査で義景の館跡と城下町跡が確認され、遺跡は国の特別史跡、庭園跡は特別名勝に指定。武家屋敷と城下町が再現されている(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館は福井県福井市安波賀町4-10)。

 25 下城戸跡 城下出入口の巨石で組まれた通路。後の大手門だろう。

 26 城下町のガイドさん。

 27 両側に武家屋敷の塀。

 28 商家の外観

 29 商家の店内

 30 紺屋の店内

 31 武家屋敷の排水溝

 32 城下町の模型

 33 朝倉義景館跡の唐門 朝倉氏が滅亡して五代義景の菩提を弔うために建てられた松雲院の門。豊臣家が寄進したと伝えられ、現在の門は江戸時代中期の再建と推定。

 34 館跡 一見して現代の中学、高校のグラウンド3面ほどの敷地に、16の建物跡が発掘された。

 35 礎石

 36 池の跡 石組に室町時代の庭園文化の名残り。

 37 朝倉義景墓所 義景は天正元年(1573)年に大野郡山田荘の六坊賢松寺で自刃、その後、村民が祠を建て、供養していた。現在の墓は江戸時代の寛文3(1663)年に当時の福井藩主、松平光通が建立。

 38 階段跡 この上に山城跡がある。

 39 唐門遠景

40 盛源寺の石仏 集落の外れにある (福井市西新町8-9)。

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