松江城は12の現存天守閣のひとつ。平成27(2015)年に慶長16(1611)年の銘がある祈祷札が見つかり、天守閣の完成が慶長16(1611)年と確定、国宝になった。今、国宝の天守閣は松江、姫路、彦根、犬山、松本の5城のみ。その他の現存天守閣は国指定重要文化財。
城の入口に築城主の「堀尾吉晴」の像がある。堀尾は尾張の人で、信長と秀吉に仕え、秀吉の備中高松城攻めで清水宗治切腹の立会人を勤めるなど、秀吉の天下取りに大いに貢献した。
秀吉亡き後、堀尾は家康支持に転じる。慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で子の忠氏の働きが認められ、隠岐と出雲に24万石を得た。しかし、忠氏が突然の病で死去、そのため吉晴が忠氏の嫡男、忠晴(6歳)を後見して松江城を築城したとされる。築城後に吉晴も老齢で亡くなり、堀尾家はその後も不幸が続いた。30代半ばになった忠晴が病に倒れ死去、後継ぎの男子がなく、大名としての堀尾家は改易になっている。
堀尾家が去った松江城に、若狭小浜から京極忠高が26万4千石の高禄で入国して3年程で播磨龍野に転封、寛永15(1638)年に信濃松本7万石の松平直政が18万6千石の松江藩主になった。
直政は家康の次男、結城秀康の子で、将軍、家光の従兄弟。慶長19(1614)年の大坂冬の陣に14歳で初陣を飾り、真田幸村隊と戦った経歴を持つ。この松平家が幕末まで10代続き、7代目藩主の「治郷(はるさと)」が江戸時代の代表的茶人「不昧(ふまい)公」である。
城に近い高台に不昧公の好みで建てられた茶室「明々庵」があった。初めに家老の有澤家屋敷内に建て、明治後に東京の松平伯爵邸に移築、昭和41(1966)年に現在地に再移築した。不昧公の茶は今も「不昧流」として続いている。
さらに、松江で忘れてならないのがギリシャ生まれのイギリス人、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)。松江藩士の娘、小泉セツと結婚して日本人に帰化、学校で英語と英文学を教えた。セツから聞いた話を元に怪奇文学作品集「怪談」他を出版、「耳なし芳一」の話は誰でも一度は聞いた事があると思う。この二人が松江で約五ヶ月間暮らした家が公開されている。
参考サイト:
松江城 https://www.matsue-castle.jp/
小泉八雲旧居 https://www.matsue-castle.jp/kyukyo/
使用カメラ:ニコン D500, D7500. レンズ:AF-S DX 10-24mm f/3.5-4.5G ED, AF-S DX 16-80mm f/2.8-4E ED VR, AF-S DX 55-200mm f/4-5.6G ED VR II.
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