岩崎弥太郎の三菱グループを弟の「弥之助」が継ぎ、弥太郎の長男「久弥」が3代目を継いだ。三菱グループの年表を見ると、久弥は慶応元年に土佐で生まれ、明治8(1875)年に9歳で慶應義塾、明治11(1878)年に12歳で弥太郎が設立した三菱商業学校に入学した。
弥太郎はこの明治11(1878)年に元は越後高田藩榊原家の藩邸で、当時、舞鶴藩牧野氏が所有する屋敷を購入して本宅にした。この本宅を関係者は「下谷茅町(当時の住所名)の本邸」と呼び、弥太郎は同時に現在の清澄庭園一帯と駒込六義園も手に入れている。
まさに日の出の勢いだが、弥太郎はこの後、胃癌を患う。当時、胃癌は不治の病で、弥太郎は将来、息子の久弥が社長になる事を遺言して明治18(1885)年2月に50歳で亡くなった。
翌、明治19(1886)年、20歳になった久弥は米国に行き、22歳でペンシルバニア大学に入学、財政学を学び、明治24(1891)年に26歳で帰国して副社長、2年後の明治26(1893)年、28歳で社長に就任し、その翌年に妻を迎えた。
久弥は初め駒込六義園の屋敷に住み、英国人のジョサイア・コンドルに洋館の建設を依頼した。日本家屋の方は当然ながら日本人の大工に任せた。そして明治29(1896)年に完成したのが今の「旧岩崎邸庭園」で、洋館は主に社交の場に使われた。
当初は15,000坪程の敷地に20棟以上の建物があったようだが、今はその3分の1程の敷地に洋館と和館大広間、山小屋風の撞球室 (ビリヤード場) が残っている。ビリヤードは当時、「紳士のたしなみ」と言われた室内スポーツで、社交の場でもあった。
コンドルは明治10(1877)年に政府の依頼で24歳の時に来日、東大で近代建築学を教えていた。上野の博物館、鹿鳴館などを設計して退官後に弥之助の深川の洋館 (現在の清澄庭園内にあった)、ニコライ堂、丸の内の三菱1~2号館、三井家迎賓館 (現、綱町三井倶楽部) などを建て、三菱との関係は深い。
旧岩崎邸は幸い関東大震災にも東京大空襲でも大きな被害に会わなかった。しかし、洋館は敗戦で進駐軍に接収され、財閥も解体された。久弥と家族は一時、日本家屋の方に住み、約50年間暮らしたこの家を出て、千葉の農場に転居した。そして久弥は昭和30(1955)年に90歳で亡くなっている。旧岩崎邸は昭和27(1952)年に国に返還されて最高裁の司法研究所に使われていた。国は昭和36(1961)年に洋館と撞球室を国の重要文化財に指定、その後、日本家屋と煉瓦塀も追加指定した。なお、エリザベス・サンダースホームの澤田美喜は久弥の娘だ。
参考サイト 旧岩崎邸庭園
https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index035.html
110-0008 東京都台東区池之端1-3-45
使用カメラ:ニコン Z5, Z50. レンズ:Z 14-30mm f/4 S, Z 24-200mm f/4-6.3, Z 50-250mm f/4.5-6.3 DX.
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