01 岡崎城 |
 |
現在の城跡は戦国時代初めの亨禄4(1531)年に家康の祖父、松平氏7代清康が築き、家康は天文11(1542)年12月26日この城で8代広忠と正室於大の方(のちの伝通院)の長男に生まれ、幼名は竹千代。19歳でようやく岡崎城の主になって、天下統一の原点となったが、10年後の元亀元(1570)年には拠点を遠江浜松城に移している。城は昭和34(1959)年コンクリートでの再建で内部は資料館。岡崎市康生町561岡崎公園内。城跡は市指定史跡。
 |
|
02 岡崎城 |
 |
 |
|
03 岡崎城堀跡 |
 |
 |
|
04 城内の能舞台 |
 |
能に関心があるのか子供が長いこと舞台を見つめていた。
 |
|
05 旧本多忠次邸 |
 |
岡崎市欠町字足延40番地の東公園内にある。堂々とした建物だ。
 |
|
06 団欒室 |
 |
リビングのこと。
 |
|
07 団欒室のステンドグラス |
 |
 |
|
08 日光室 |
 |
主に夫人が使用したサンルーム。
 |
|
09 浴室 |
 |
 |
|
10 2F階段横のステンドグラス |
 |
 |
|
11 階段 |
 |
 |
|
12 釘隠しの家紋 |
 |
「丸に右離れ立葵」の本多家の家紋の釘隠し。東京本郷森川町の旧岡崎藩邸で使用していたのを二階の客間と使者の間の長押に使った。
 |
|
13 三連アーチのテラス |
 |
 |
|
14 外壁 |
 |
 |
|
15 大樹寺山門 |
 |
寺は文明7(1475)年に松平氏4代親忠(安城松平家初代)が敵味方の区別なく戦死者を弔うために建立した。5代長親の時に安城松平家が松平惣領家になると、大樹寺が松平宗家菩提寺となって松平、徳川家の厚い保護を受けた。現在の山門は寛永18(1641)年三代将軍家光による建立。岡崎市鴨田町字広元5-1。県指定建造物。
 |
|
16 山門の柱 |
 |
 |
|
17 山門から岡崎城を見る |
 |
本堂から山門、総門を通して約3キロの直線上に岡崎城を望むビスタラインで知られる。家光の、祖父誕生の城を常に望めるようにという想いからだという。霞んではいるが確かに城が見える。
 |
|
18 本堂 |
 |
家康の旗印「厭離穢土」「欣求浄土」が大書してある。本堂は幕末の安政2(1855)年将軍家定の時に火災で焼失して2年後の安政4(1857)年の再建。市指定建造物。
 |
|
19 木造阿弥陀如来坐像 |
 |
平安末期の作で高さ140cmの寄木造。安政4(1857)年の本堂再建の時に京都の泉涌寺(せんにゅうじ)から迎えられた。県指定有形文化財。
 |
|
20 松平八代墓 |
 |
墓苑は大坂夏の陣があった元和元(1615)年に家康が再建した。初代の親氏から八代広忠までの墓が順番に並んでいる。天下を取った家康の先祖に対する敬慕の念が伝わって来るようだ。広忠の墓の隣には昭和44(1969)年に岡崎市民が建てた遺品を納めた家康の墓もある。市指定史跡。
 |
|
21 初代親氏の墓 |
 |
家康は征夷大将軍の宣下を受ける際、その先祖は群馬県新田荘徳川(得川)郷から出た新田源氏末流の徳阿弥が、室町時代に三河の松平家に婿入りして松平親氏を名乗ったのが初代だとしている。親氏の墓は大樹寺に程近い岡崎市岩津の信光明寺、豊田市松平町の高月院にもあるというが、昔は墓が複数あるのは珍しくない。
 |
|
22 八丁味噌 |
 |
大豆を仕込んだ樽にピラミッド状に丸い重石を載せ、家康が戦陣に持参したことで知られる。岡崎城から八丁の位置にあることから八丁味噌の名が付いたという。旧東海道を挟んで「まるや八丁味噌」「カクキュー」の二軒が現在も当時の方法で味噌造りを続け、二軒共に見学出来る。
 |
|
23 まるやの古い味噌蔵 |
 |
平成18(2006)年NHKのテレビドラマ「純情きらり」の蔵の場面はここで撮影された。
 |
|
24 味噌樽 |
 |
杉を使って今も専門の樽職人が造る。
 |
|
25 味噌樽 |
 |
 |
|
26 まるやの看板 |
 |
工場内売店に掲げられた昔の看板。創業はなんと南北朝時代の延元2(1337)年。ということは家康が戦陣に持参したのはこのまるやの味噌ということになる。岡崎市八帖町往環通52。
 |
|
27 カクキュウの建物 |
 |
昭和2(1927)年の建物二棟が国登録有形文化財の指定を受けている。創業は江戸時代三代家光の頃の正保年間(正保元(1645)年~5(1648)年)。現当主、早川久右衛門氏は19代目。岡崎市八帖町往環通69。
 |
|
28 味噌蔵 |
 |
 |
|
29 味噌蔵 |
 |
 |
|
30 「純情きらり」の手形 |
 |
道路に面して主役の宮崎あおいの手形があった。
 |
 |