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2014年3月30日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
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 天空の城 備中松山城   Bicchu Matsuyama Castle   New Work


兵庫県朝来市の標高353.7mの天空の城「竹田城跡」が異常な人気だ。雲海に浮かぶ石垣の写真があふれているが、岡山県高梁市の標高430mの臥牛山頂にも天空の城「備中松山城」がある。全国に12箇所の現存天守閣のひとつで天守閣は国指定重要文化財、城跡全体が国史跡だ。半日、城と城下町を見て歩いた。

市の説明では、備中松山城は鎌倉時代に承久の乱(1221)の功で地頭に任じられた相模の秋庭(葉)三郎重信が、延応2(1240)年に天然の要害の臥牛山頂に砦を構築したことに始まる。天正2(1574)年の「備中兵乱」の頃は21の出丸を持つ大要塞で、幕末までに15回も城主が代わったという稀有な歴史を持つ。秋庭氏に始まって高橋、高、秋庭、上野、庄、三村、毛利(城代が在番)と続いて江戸時代は小堀(国奉行)、池田、水野(在番)、水谷(みずのや)、浅野(播州赤穂浅野家の大石内蔵助が在番)、安藤、石川、板倉の各氏である。

ここは備中国の軍事、交通の要衝ゆえに国人領主たちが城をめぐる攻防を繰り返し、戦国時代の一時は武蔵国児玉党庄(または荘)氏から出た「備中庄氏」が城主になった。鎌倉幕府は当然ながら武蔵国の御家人の数が一番多く、庄氏も地頭として赴任して国人領主に成長した武士団だがわずか2代で落城した。その後もしばらくは中国地方の戦いに名が現れるが没落したようである。

城は江戸時代中頃の天和3(1683)年に水谷家が3年をかけて改修し、延亨元年(1744)に伊勢亀山から板倉家が5万石の備中松山藩として入封、明治の初めまで8代続いた。特筆されるのが松平定信の孫に生まれた7代板倉勝静(かつきよ)だ。陽明学者の山田方谷を登用して藩政改革を成功させ、幕末に慶喜を補佐して老中首座を務めた。戊辰戦争では桑名藩主の松平定敬、唐津藩世子の小笠原長行らと函館五稜郭で最後まで官軍と戦って幕末史を語るに欠かせない。維新後の明治5年に赦免されて上野東照宮神官になった。

なお、徳川政権樹立時の板倉家初代の勝重は家康の信頼厚く、関ヶ原合戦後に京都所司代として都の治安に当たった。板倉氏は足利氏の係累で、群馬板倉から出て戦国時代に三河深溝松平家の家臣になったという。

使用カメラ:ニコンD610, D3200. レンズ:24-85mmf/3.5-4.5VR,70-200mmf/4


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01 松山城遠景 雲海の発生は冬の11~2月頃とか。

02 城への山道 本丸までふいご峠駐車場から登り斜面と石段を徒歩約20分かかる。

03 足軽箱番所付近の石垣 巨大な岩盤の上に石垣がある。

04 三の平櫓東土塀 一部は復元で国指定重要文化財。

05 黒門付近

06 石垣 崖を覆い尽くす石垣。

07 城の全景 右奥が天守閣。

08 本丸南御門入口

09 ニ層二階の天守閣 平成12~15年まで城跡全体の復元修理を実地、石垣下部の岩盤をも補強した。国指定重要文化財。

10 天守室内

11 天守室内から市内を見る

12 天守室内から見る二重櫓

13 岩盤の上の二重櫓 二重ニ階の櫓で、本丸と後曲輪を結ぶ位置にある。天和3年の水谷勝宗による改築の際に建てられたと思われる。

14 腕木門の石垣と土塀 門は復元した本丸の裏門。

15 搦手門跡 二重櫓下の斜面にある。

16 武家屋敷街 約250mの武家屋敷街で「石火矢町ふるさと村」とよぶ県指定の町並み。 2軒の屋敷を一般公開中。

17 旧埴原家住宅の格子窓 埴原家「はいばらけ」は120石から150石取りの近習役や番頭役を務めた家柄で4代藩主勝政公生母の実家。江戸後期の平屋建て。市指定重要文化財。

18 旧埴原家住宅玄関の間 槍や弓が架けられている。

19 旧埴原家住宅座敷

20 旧埴原家住宅土間の上り框

21 旧折井家住宅長屋門 折井家は200石取りの物頭役を勤めた家柄で天保年間の建築。市指定重要文化財。

22 旧折井家住宅 母屋は書院造り。

23 旧折井家住宅台所

24 旧折井家住宅 竹製の濡れ縁。歩くと音がするので不審者の侵入を防ぐことが出来た。

25 旧折井家住宅「鎧」

26 商家

27 商家の虫籠窓(むしこまど) 丹羽諭 Web-ProPhoto写真展「富田林の寺内町」14を参照。

28 八十六銀行跡 明治11(1878)年に板倉勝静らが設立した現在の中国銀行発祥の地。

29 高梁キリスト教会堂 明治22(1889)年築の岡山県最古の教会で県指定史跡。明治13年に新島襄が布教に訪れた。

30 高梁キリスト教会堂

31 教会内部 平日の昼間に見学可能。

32 頼久寺庭園 臨済宗永源寺派寺院。江戸時代初期の大名で茶人、小堀遠州作の蓬莱式枯山水庭園がある。小堀家は関ヶ原合戦後に約17年間、松山城の国奉行として勤務した。国指定名勝に指定。

33 頼久寺庭園

34 頼久寺の上野・三村氏墓 室町時代の城主、上野氏と戦国時代の三村氏の墓が並んでいる。上野氏は足利氏の傍流、三村氏は常陸国から出た鎌倉御家人で、いずれも地頭として土着した勢力だ。備中庄氏が上野氏を倒し、三村氏は備中荘氏を倒して松山城主になるが、後に三村氏は毛利氏に滅ぼされた。

35 寺院の石垣 市内は大きな石垣が目立ち、石垣の町と言ってもよい。とりわけ寺院の石垣はまるで城のようである。写真の寺院は日蓮宗の巨福寺。

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