01 舞鶴公園「高鍋城」 |
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平安時代末から室町時代の終わりまで土持氏、戦国時代は日向伊東氏、そして薩摩島津氏の城になり、当時は財部(たからべ)城と呼んだ。秋月氏の城になって3代藩主種信の時に城郭を整備して高鍋城と名を変えた。伊東氏は日向飫肥藩として続いている(Web-ProPhoto写真展「九州飫肥の城下町」を参照)。
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02 寒山拾得(かんざんじっとく)の 石仏 |
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公園入口の駐車場のそば。説明に中国の民間信仰の道教神だという。元、江戸藩邸にあった時、毎夜歩き回る怪しい者がいるので武士が切りつけると、この石仏に刀の痕があった。秋月家に異変があると夜泣きをしたといわれる。
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03 双体道祖神 |
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寒山拾得の石仏そば。
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04 舞鶴神社 |
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秋月氏の祖、阿知使王、他を祀る。
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05 「長峰門」礎石 |
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本丸正門跡。
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06 丁丑戦亡(ていちゅうせんぼう) 記念碑 |
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西南の役の78名他の戦没者を祀る碑で戦後の再建。本丸正門跡のそばにある。「丁丑」は干支(えと)のことで丁丑の戦の意味。
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07 本丸政庁・奥御殿跡 |
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建物などの遺構はない。
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08 虎口 |
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防御のために通路を狭くした。
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09 土塁 |
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10 石垣 |
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11 物見台から見る市内 |
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12 萬歳亭(ばんざいてい) |
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秋月家は10代種殷(たねとみ)で明治維新を迎えたが、11代種樹(たねたつ)は学問を好み、14代将軍家茂の侍読(じどく)係に、維新後は天皇の侍読係に、その後、現在の文部科学大臣に相当する大学大監に就任した。城内に種樹の住家を復元。
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13 萬歳亭室内 |
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14 萬歳亭の水琴窟と石燈籠 |
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15 刀工鍛冶場 |
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初代藩主種長(たねなが)が筑前から招聘した岩下姓のお抱え鍛冶が3家あり、岩下英(盛夷)氏の鍛冶場を復元した。
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16 鍛冶場 |
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17 藩境界標識 |
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城内に移築した。
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18 大クスの木 |
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舞鶴神社境内の樹齢500年を超えるという古木で、国指定天然記念物。
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19 濠 |
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濠の向こうは県立農業高校で、この敷地内に藩校「明倫堂」があった。
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20 城の大手門跡 |
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高校正門そば。
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21 濠と石垣 |
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22 家老屋敷 |
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秋月家の移封に従って筑前から高鍋に来た黒水家の住宅で文化文政年間(1804-1830)の建築。敷地内に味噌蔵、土蔵がある。黒水家は代々剣術家の家柄という。
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23 家老屋敷室内 |
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24 家老屋敷室内 |
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25 籾蔵 |
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西南戦争で政府側を支持した藩士9名が薩軍に捕らえられてこの籾蔵におよそ2ヵ月間、閉じ込められた。その内の1名、家老職の秋月種節は死亡、彼らは「籾蔵の九烈士」と呼ばれる。
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26 籾蔵内部 |
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資料を展示。
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27 秋月種樹と三好退蔵 |
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右が11代秋月種樹、元老院議官44歳の時の写真。左が大審院長に出世した三好退蔵32歳の時の写真。
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28 家老屋敷前の用水路 |
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町内を初代藩主の秋月種長が長友勘右衛門らに作らせた用水が縦横に流れている。家老屋敷前にて。
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29 武家屋敷街 |
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30 手前が秋月種茂、奥が上杉鷹山像 |
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武家屋敷街西端の高鍋町美術館内。
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31 秋月墓地 |
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大龍寺、龍雲寺、安養寺の3か所に藩主と一族の墓がある。寺は明治の廃仏毀釈で棄却されて建物はない。写真は大龍寺墓地。
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32 石井十次顕彰之碑 |
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高鍋駅ホームの前。孤児を引き取って育てた石井は児童福祉の父と呼ばれた。
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