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2015年10月6日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
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 高崎城   Takasaki Castle   New Work


天正18(1590)年、関東に入封した徳川家康は、井伊直政を12万石で箕輪城(Web-ProPhoto写真展「長野業政の上州箕輪城」参照)に置いたが、直政は慶長3(1598)年、利根川水系の烏川と碓氷川が合流する高崎に城を移した。その後、直政は2年後の慶長5(1600)年、豊臣方との手切れを予想して石田三成の居城だった近江佐和山に行き、さらに新たに彦根城を築城した。当時の武将達は土木工事のプロでもある。

箕輪城から高崎に移転したのは、素人ながら考えるに戦いが山城での攻防から、より早く平野部で大部隊を展開する戦いに変化したこと、この場所が山間部と関東平野の合流地点だということ、烏川と碓井川での物流をも視野に入れ、中山道の整備を急いだというのもあるだろう。家康の利根川東遷の大事業を見ても彼らは関東平野、さらには日本全体を俯瞰して見る目を持っていた。

高崎は鎌倉幕府御家人の和田一族の末裔が拠点とした所で、戦国時代の後半は小田原北条氏の支配が長かった。井伊家が彦根に去った後は酒井、戸田、松平、安藤、間部と藩主家は次々と代わり、その後はおよそ8万石で154年間、大河内松平家が治めた。ちなみにこの家系は知恵伊豆と呼ばれた松平信綱を先祖に持ち、信綱を含めた代々の墓所は埼玉県新座市野火止の「平林寺」にある。

現在の高崎城は小さな櫓と門、それと三の丸の土塁と濠が残っている。敷地はおよそ5万坪で周囲を歩くとその広さを実感する。幕末、渋沢栄一と尾高惇忠が、尊王攘夷を掲げて高崎城を乗っ取り、鎌倉街道を通って横浜に行き、外国商館を焼き討ちしようとしたと自伝で述べているのだが、本気だったのか、疑問に思った。

戦国時代に竹中半兵衛が数名の家臣と稲葉山城を乗っ取ったという昔話はあるにはあるが、常識的に100名足らずで高崎城を乗っ取るというのは正気の沙汰ではない。幸い、従兄弟の尾高長七郎が計画の中止を説得してことなきを得た。もちろん渋沢はこの顛末を反省して述べているのだが…。

郷里を出奔した渋沢はなんと一橋慶喜家に仕え、慶喜の命でパリ万博に行く。近代経済を学んで帰国した彼は日本に多くの企業を設立、今日に続いている。高崎城は渋沢と日本に大いなるきっかけを作った。
使用カメラ:ニコンD7200, D610, D750. レンズ:DX 18-300mmf/3.5-6.3G, FX 18-35mmf/3.5-4.5G, 24-85mmf/3.5-4.5G, 70-200mmf/4G.

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01-03 箕輪城


 01 箕輪城遠景「搦手口付近」 国指定史跡。高崎市箕郷町西明屋、東明屋。

 02 本丸跡

 03 堀跡


04-08 長純寺
箕輪城主長野氏の菩提寺。寺伝によると、鷹留城主、長野信業が開いた曹洞宗の寺。高崎市箕郷町富岡852。

 04 長純寺門前の石仏

 05 長純寺本堂

 06 長純寺「長野業政の木像」 業政は長野信業の子で業政(なりまさ)あるいは業正とも。関東管領山内上杉家の上杉憲政に仕え、6度に亘る甲州武田家の猛攻を防いだ名将として名高い。像は高さ約35センチメートル。本堂奥の開山堂に安置されている。今回、特にお願いをして撮影をさせて頂いた。高崎市指定文化財。

 07 檜扇(ひおうぎ)の家紋 本堂入口のガラス戸に描かれた長野氏の家紋、長純寺の家紋でもある。

 08 業政の墓 境内裏手の墓地にあり、供養塔との説も。


09-12 箕郷町「旧下田邸」
長野氏の重臣、下田大膳正勝の子孫が代官として続いた家。庭園に青翆園の名がある。書院、及び庭園は県指定文化財。高崎市箕郷町西明屋702-2。

 09 旧下田邸の門

 10 旧下田邸書院 武家屋敷としての格式を備えた書院造りの江戸時代の建物。室内に立ち入りは不可。

 11 旧下田邸土蔵

 12 旧下田邸土蔵のなまこ壁

13 長年寺「長野氏の墓」 長年寺は鷹留(たかとめ)城主(高崎市指定史跡)長野氏の菩提寺。初代鷹留城主、長野業尚(なりひさ)の他7名の五輪塔がある。鷹留城は箕輪城を築城する以前の長野氏の城で、箕輪城築城後は支城の役割を果たしたという。高崎市指定史跡。高崎市下室田町1451。


14-15 来迎寺「長野氏累代の墓」
長野氏が滅亡して畑や濠などに埋もれていたのを、大正12年頃に長野一族の子孫の方々が発掘して安置したという。長野氏一族は続いているようで、墓苑入口に真新しい「長野氏宗家」の標柱があった。高崎市指定史跡。高崎市浜川町981。

 14 来迎寺「長野氏累代の墓」

 15 来迎寺「長野氏累代の墓」


16-26高崎城


 16 乾櫓(いぬいやぐら) かつては本丸の天守近くにあった櫓という。明治維新後、払い下げられて農家で納屋に使用されていたのを三の丸の土塁の上に移築復元した。群馬県内で現存する唯一の櫓。高崎市指定重要文化財。高崎市高松町。

 17 乾櫓(いぬいやぐら)

 18 石垣

 19 石垣

 20 石垣

 21 東門 明治維新後、乾櫓と同じく民間に払い下げられていたのを移築復元した。乾櫓のわきにある。高崎市指定重要文化財。

 22 東門

 23 歩兵第15連隊の碑 明治維新後、城跡に歩兵第15連隊が置かれた。

 24 三の丸土塁 高崎市指定史跡。

 25 三の丸土塁

 26 濠 高崎市指定史跡。

27 高崎市役所21階から見る烏川と碓氷川 かつてこの合流地点に和田氏の城があり、これを取り込む形で高崎城が築城された。


28-29 大信寺「徳川忠長の墓」
忠長は三代将軍、家光の弟。乱行を咎められて高崎城に幽閉され、切腹を命じられた悲劇の人物。JR高崎駅西口下車すぐの所にあり、拝観は事前に許可がいる。高崎市指定史跡。高崎市通町75。

 28 墓所正面

 29 葵の紋


30-38 上豊岡の茶屋本陣(飯野家)
上豊岡は高崎宿と板鼻宿の間にあり、茶屋本陣は大名行列などで殿様の休息に使用された所で、宿泊はしない。作家、浅田次郎氏の、中山道の大名行列を描いた小説「一路」で、駕籠の中の殿様が、足がしびれて苦しむシーンがあるが、一日中駕籠に揺られるのは相当に辛かったであろう。飯野家は高崎藩御用を勤め、高崎城内に屋敷を持ち、材木、米、金融を扱った旧家。県指定史跡。高崎市上豊岡町133-12。

 30 茶屋本陣入口

 31 庭園から見た座敷

 32 上段の間

 33 畳廊下

 34 違棚の文様

 35 欄間

 36 組子障子

 37 組子障子

 38 襖絵 銀箔を貼ってその上に竹を描いた襖絵。

39 上豊岡(藤塚)の一里塚 幕府は五街道の一里(約4キロ)ごとに塚を築き、群馬県で唯一残った塚。樹齢およそ400年を超えるというムクノキが茂る。碓氷川と並行する旧中山道の現在の国道18号線わきにある。県指定史跡。

40 神流川古戦場跡の碑 江戸から埼玉の本庄宿を過ぎ、神流川を渡ると新町宿、倉賀野宿、高崎宿に至る上野国に入る要衝の地である。戦国時代、織田信長が本能寺で亡くなり、天正10(1582)年6月18、19日の両日、厩橋(前橋)城にいた滝川一益の上州の兵1万6千と、小田原北条氏5万の兵が神流川を挟んで激突、双方に多くの死者を出し、北条氏が勝利した。戦国時代の関東で歴史的な合戦だった。高崎市新町の国道17号線の神流川橋の群馬側。

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