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2014年1月30日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
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 武蔵国カメラ風土記29 中山道本庄宿
 Post town of Honjo on the Nakasendo Route   New Work


埼玉県の中山道本庄宿で古い建物や蔵をリニューアルして現代に生かす試みが進行中だ。景観の維持と活性化のためにもぜひとも推進して欲しいと思う。

本庄は戦国時代までは武蔵武士団の児玉党本庄氏が城館を構えていたが、秀吉の関東攻めで落城した。関東は徳川が仕置きをするようになり、天正18年(1590)信州飯田の松尾城から小笠原信嶺が1万石で入国する。だが、小笠原氏は20年程で古河に転封、その後、中山道最大の宿場町に変貌して天保の頃には家数が1,000軒を超えたという。

この本庄宿と周辺には甲州武田氏に関わる歴史がある。武田信玄を尊敬する家康はその遺臣を積極的に登用したが小笠原信嶺もその一人だった。信嶺は着任後すぐに開善寺(臨済宗妙心寺派)を建立、信玄の弟の信廉(出家して逍遥軒信綱)の子、宗温が甲州の寺にいたのを招聘して開山とした。信嶺の妻は宗温の妹だった。寺にはこの小笠原信嶺夫妻の墓がある。

上里町金久保の陽雲寺(曹洞宗)も武田氏ゆかりの寺だ。小笠原信嶺が本庄に赴任した翌年の天正19年(1591)信玄の異母弟である武田信実の子、信俊が家康から金久保の地を与えられて川窪信俊と名乗った。寺伝では信俊は養母の武田信玄夫人を伴い、夫人は当時、崇栄寺と呼んだこの寺に居住し、元和4年(1618)に没してその墓がある。信俊は夫人の法号から寺を陽雲寺と改称したとなっている。

なお、信俊は知行がある小川町上横田村に慶長13年(1608)輪禅寺を建立して一族の菩提寺とした(丹羽諭 Web-ProPhoto写真展「武蔵国カメラ風土記11 比企の戦国」40 を参照)。この川窪武田家はのち元禄10年(1697)丹波国に転封した際に姓を旧姓の武田に復して幕府旗本として続いた。

使用カメラ: ニコンD800, D3200 (03のみ). レンズ: FX24-85mmVR, 70-200mmf/4.

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01 滝岡橋 中山道岡部の岡交差点を過ぎて小山川に架かる橋を渡ると本庄市の牧西地区に入る。この橋は昭和3年(1928)築の国登録有形文化財。本庄市堀田・深谷市岡。

02 旧藤田村役場 牧西地区の藤田小学校の隣に建つ。ぜひ、補修して保存して欲しい建物だ。見学は外観のみ。本庄市牧西1137。

03 牧西付近の中山道 所々に古い建物が残る。

04 戸谷八瀬戸物店 創業永禄3年の看板を掲げる代々「戸谷半兵衛」を襲名した関東一の豪商として知られる。現在は瀬戸物商。裏手に安政から明治にかけての蔵が並ぶ。永禄3年(1560)は尾張国で織田と今川の桶狭間の戦いがあった年だ。営業中。本庄市中央1-7-21。

05 仲町郵便局 旧本庄郵便局。秩父セメントを創業した諸井恒平が昭和9年(1934)に建てた。昔は郵便局は地域の素封家が資金を出して建てることが多かった。営業中。国登録有形文化財。本庄市中央1-8-2。

06 諸井家住宅 諸井家が明治13年(1880)横浜の洋館を参考に建てた住宅。仲町郵便局の駐車場の奥にある。見学は外観のみ。県指定有形文化財。本庄市中央1-8-1。

07 中央1丁目交差点付近の中山道

08 蔵髪「美容室Kurappa」 幕末の安政3年(1856)建築の元丸十商店の蔵。江戸時代は酒店を営んでいた。横浜出身で蔵の美容室が夢だったという若い男性美容師が昨年、外観はそのままに内部もあまり変更せず、洒落た雰囲気に改装して営業中。本庄市中央3-1-24。

09 蔵髪2階 どのように使うか、検討中とのこと。

10 旧本庄商業銀行煉瓦倉庫 明治29年(1896)融資の担保の繭や生糸を保管するために建てた倉庫で(丹羽諭 Web-ProPhoto写真展「武蔵国カメラ風土記20 旧本庄商業銀行煉瓦倉庫」を参照)、現在は市が管理する。国登録有形文化財。見学は外観のみ。本庄市銀座1-5-16。

11 森田商店 昭和初期の建築で戦前まで味噌、醤油の蔵。現在は森田商店が日用品卸売・小売を営み現当主で15代目になる商家。見学は外観のみ。本庄市中央3-2-5。

12 そば処きむらや 店舗は古建築の再生で奥に蔵。営業中。本庄市千代田1-6-16。

13 野口製麺工場 写真右手の建物が野口製麺工場で屋号が「中野屋」。現当主は7代目。創業者が戸谷家の商家「中屋」の番頭さんだったため中屋の中と野口の野からとって中野屋になった。営業中。本庄市千代田1-4-33。

14 一の蔵 三つの蔵と住宅がセットになって元の町名から宮本蔵と呼ぶ。一の蔵は明治12年に江戸時代からの旅籠屋、真塩家が建てた。現在は蔵の再生に取組む戸谷建築事務所のオフィスで営業中。本庄市千代田4-2-4。

15 二の蔵 明治22年に真塩家が建てた。その後は旧小森酒店の味噌醤油蔵「二の蔵」として使用され、今は「cafe NINOKURA」として2011年から町の情報発信の場になった。営業中。本庄市千代田4-2-4。

16 三の蔵 大正10年、旧小森酒店の酒の保管蔵に煉瓦造りのトラス構造で建てられた。かつて本庄赤煉瓦ホールとして使われていたが、2013年法務事務所に転用。見学は外観のみ。本庄市千代田4-2-4。

17 金鑚神社 武蔵武士団児玉党の氏神様で本庄宿全体の氏神様でもある。創建は欽明天皇2年(541)。社殿に江戸時代の建築で細部に極彩色の彫刻。市指定有形文化財。本庄市千代田3-2-3。

18 金鑚神社のクスノキ 江戸時代に小笠原信嶺の孫、忠貴が寛永16年(1639)に植えた関東で最も大きいというクスノキ。県指定天然記念物。

19 本庄市歴史民俗資料館 明治16年(1883)本庄警察署として建築。今は本庄市歴史民俗資料館に使用され、有名な笑う埴輪はここに展示。県指定有形文化財。本庄市中央1-2-3。

20 田村本陣の門 江戸時代の本陣の門で、元は中央1-6の区域にあったのを資料館の前に移築。寛永19年(1642)からの宿帳が残る。市指定有形文化財。本庄市中央1-2-3。

21 開善寺山門 臨済宗妙心寺派。本庄市中央2-8-26。

22 小笠原信嶺夫妻の墓 山門前の道路を挟んだ真向かいの墓地の古墳上に築いている。左が信嶺、右がその妻。本庄市指定史跡。

23 宥勝寺・荘小太郎頼家の五輪塔 荘氏は源平時代の児玉党の領袖。小太郎は一の谷合戦で討ち死にし、わきに一族の墓石が並んでいる。吾妻鏡では小太郎の父の家長が平清盛の五男の平重衡を生け捕ったとなっている(丹羽諭 Web-ProPhoto写真展「武蔵国カメラ風土記7 源平合戦」27 を参照)。宥勝寺は小太郎の妻が小太郎の菩提を弔うために建立。県指定旧跡。本庄市栗崎155。

24 義民遠藤兵内之碑 江戸の明和元年(1764)10代将軍家治の時、百姓に課せられる助郷役の増大(増助郷)に怒った信州、上州、武蔵国の中山道28宿の農民20万人が参加した百姓一揆「中山道伝馬騒動」が起きた。それは本庄宿の十条川原の大集会から始まり、幕府は要求を呑むが、指導者の美里村の名主、遠藤兵内(43)は斬首され、3日3晩首が晒された。人々は「兵内様」と呼んで今も崇めている。児玉郡美里町関の県道75号線の志戸川の川辺。

25 遠藤兵内供養塔 美里町関の観音堂の墓地にある。町指定旧跡。

26 塙保己一像 延亨3年(1746)に現在の本庄市児玉町に生まれ、失明するが名書「群書類従」を編纂、版木を起こして印刷刊行した江戸時代を代表する国学者。文政4年(1821)に総検校になるが同年76歳で他界した。資料は一括して県指定歴史資料。本庄市児玉町八幡山446(雉岡城跡内)の塙保己一記念館に展示。

27 群書類従

28 群書類従

29 畑時能供養祠 陽雲寺参道わき。南北朝時代、新田義貞の家臣で秩父長瀞出身の武将。南朝方で義貞の戦死後も戦うが越前国で足利氏に敗れた。家臣の児玉五郎左衛門光信が首級を持ち帰って供養し、自身もその隣に祀られたという。県指定旧跡。児玉郡上里町金久保701。

30 陽雲院之墓 武田信玄夫人と伝わる墓。寺伝で信玄の異母弟の信実が長篠合戦で戦死したため、幼少だった信実の子、信俊を夫人が養育したとなっている。墓前には三条実美書「武田家遺臣招魂碑」もある。上里町は、狩野元俊の伝武田信玄夫妻画像、武田家ゆかりの古文書などを町指定文化財に指定し、陽雲院之墓は史跡に認定している。

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