01-17 五料の茶屋本陣「お西」
道路から向かって左、西側が「お西」の建物。中島家は関ケ原合戦の翌年、慶長6(1601)年の古文書にその名があるという旧家。天保7(1836)年からは2軒の中島家が1年交代で名主役を務めた。江戸時代、名主役を交代制にした藩は多かった。県指定史跡。安中市松井田町五料564-1。
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01 お西の外観 |
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02 土蔵 |
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03 広い土間 |
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04 茶の間 |
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05 入口わきの風呂場 |
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入口を入ってすぐわきにあり、夏はここで行水を使った。冬は簀子の上に風呂桶を置き、簀子から落ちる水で人糞や尿を薄めて畑の肥料にした。水を無駄に使わない工夫だが、ここまでするのは初めて知った。
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06 大黒柱 |
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07 2階から見る茶の間の空間 |
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08 削りかけ |
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「削りかけ」または「削り花」などと呼ぶ。小正月に「ニワトコ」の木などで作り、神棚を飾って豊作を祈る民俗行事。以前、東京の奥多摩や、檜原村でよく見かけて撮影している。ここでは「十二段バナ(六段バナ二本)神棚に飾る」と説明があった。
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09 漆器のお椀 |
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10 長持 |
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坂本宿から次の宿場まで公用の書類を運んだ。
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11 上段の間 |
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大名や公家がこの部屋で休息した。明治11年9月6日、明治天皇の北陸東海巡幸の際もこの部屋で休息をとった。部屋は当時のままに保存されている。
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12 床の間 |
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13 違い棚 |
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14 障子 |
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15 障子と紅葉 |
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16 板戸 |
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17 壁面 |
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18-27 五料の茶屋本陣「お東」
東側が「お東」の建物で、見学は「お西」の入口から入る。天保11年と幕末の万延元年の絵図面が残っていて、これを参考に復元工事をした。県指定史跡。松井田町五料566。
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18 お東の外観 |
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19 格子窓 |
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20 柱と礎石 |
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21 茶の間 |
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22 上段の間 |
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23 井伊の赤備え |
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甲州の武田軍団の中で、赤い武具で統一した部隊は特に精強と評価が高かった。武田氏が滅んで徳川家は旧臣達を積極的に受け入れ、井伊直政は自らの軍団を赤備えで統一した。箕輪城を得てすぐに高崎城を築城して横川に関所を設けた直政は、関所を守る家臣らにも赤備えの鎧を支給したと伝えられる。
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24 障子と花 |
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25 板戸と障子 |
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26 板壁の年輪 |
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27 建物側面 |
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28-33 安中藩郡奉行役宅
村方を支配した幕末の郡奉行、猪狩幾右衛門(いかりいくえもん)の役宅。長屋門を構えてはいるが、全体に質素な印象を受ける。市指定文化財。安中市安中3-6-9。
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28 外観 |
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見た目には農家と変わらない。
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29 外観 |
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30 座敷 |
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31 享保雛 |
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寄贈された雛人形。雛祭りの時は座敷一杯に雛を飾る。
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32 湯殿 |
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33 猪狩幾右衛門の画像 |
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34-39 安中藩武家長屋
一般の藩士は長屋に住んだ。3軒長屋として残っていたのを4軒長屋に復元して公開、道路を挟んだ郡奉行役宅の真向かいにある。市指定文化財。安中市安中3-6-1。
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34 全景 |
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江戸時代、前庭は畑だった。どの藩でも一般の武士は非番の時は畑仕事をし、倹約を美徳とする生活をしていた。
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35 座敷 |
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36 座敷 |
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37 梁と天井 |
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38 長屋の裏側 |
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格子を横に付けた与力窓があつらえられている。
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39 側面 |
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40-41 旧碓氷郡役所
明治21(1888)年に建てた西洋建築の役所が明治43(1890)年に火事で焼け、新たに翌年、和風建築で建てた。今は郡役所の歴史の展示とギャラリーに利用されている。市指定文化財。安中市安中3-21-51。
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40 外観 |
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41 外観 |
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42-43 日本キリスト教団「安中教会」
旧碓氷郡役所の隣りにある。安中藩士の家庭に生まれ、キリスト教の布教に尽力した新島襄が設立に関わり、日本人が最初に建てた教会という。見学は3週間前までにあらかじめ予約が必要で、今回の写真は道路からの撮影。国登録有形文化財。安中市安中3-19-10。
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42 外観 |
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43 外観 |
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44-45 新島襄両親の家
新島襄は天保14(1843)年、江戸の安中藩上屋敷で生まれた。幕末の元冶元(1865)年、国禁を破って函館から米国船に乗って出国、米国でキリスト教を学んだ。帰国後、京都に現在の同志社大学を設立したが、明治23(1890)年、療養で滞在した大磯で死去、46歳の若さだった。その新島の両親が住んだ家で、新島が実際に安中に滞在したのはわずか3週間ほどだった。市指定史跡。安中市安中1-7-30。
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44 座敷 |
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45 土間 |
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