Web-ProPhoto.com
2015年11月19日掲載

丹羽 諭   Satoshi Niwa ルポルタージュ
Reportage
作品一覧
List


 群馬安中・五料の茶屋本陣と武家屋敷   New Work
 Chaya-Honjin (Headquarters of Daimyo) of Goryo, Annaka City, Gunma Prefecture


群馬県上信越道の松井田妙義ICから国道18号線に出て信越線の線路の反対側に「五料(ごりょう)の茶屋本陣」がある。祖先を同じくする東西2軒の中島家が1年交代で名主役と本陣の役割を担い、「お東」「お西」と呼ばれていた。本陣と言っても大名や公家が休息に利用した所で、Web-ProPhoto写真展「高崎城」で掲載した上豊岡の茶屋本陣と同じく宿泊はしない。明治11(1878)年9月に明治天皇も「お西」で休息している。

徳川幕府は大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした元和元(1615)年、井伊直政の子、直勝(なおかつ)を安中藩3万石の初代藩主にした。だが、井伊家は2代直好(なおよし)の代で三河に転封する。その後の安中藩は水野、堀田、板倉、内藤、再び板倉家と、三河以来の徳川譜代が代々の藩主家になった。それだけ戦略的に重要な地点だった。

旧市街地に板倉家の郡奉行役宅と藩士の長屋が移築復元されている。説明によると藩士の数は約240名、140名が国元、100名が江戸藩邸にいた。そして国元で戸建ての屋敷に住んだのは30名程の上級藩士だけで、一般の藩士は長屋住まいだったとか。Web-ProPhoto写真展「伊勢松阪の建物」で撮影した御城番屋敷も長屋だったのを想い出した。

ところで、最近、幕末の板倉家5代藩主、勝明(かつあきら)が藩士の鍛錬に始めたマラソン大会「安政の遠足(とおあし)」が大人気だ。浅田次郎氏の小説「一路」や、土橋章宏氏の「幕末まらそん侍」で安中藩の遠足が描かれて注目度が高まった。今では毎年5月の第2日曜日に参加者が仮装して走り、ニュースになる(※記事中の数字等は、安中市の資料に拠った)。
使用カメラ:ニコンD610, D750. レンズ:FX AF-S 18-35mm f/3.5-4.5G, AF-S 70-200mm f/4G.

各画像をクリックすると拡大表示されます。Click to enlarge.  
各作品の著作権はすべて撮影者に帰属します。
二次使用は固くお断りいたします。






01-17 五料の茶屋本陣「お西」
道路から向かって左、西側が「お西」の建物。中島家は関ケ原合戦の翌年、慶長6(1601)年の古文書にその名があるという旧家。天保7(1836)年からは2軒の中島家が1年交代で名主役を務めた。江戸時代、名主役を交代制にした藩は多かった。県指定史跡。安中市松井田町五料564-1。

 01 お西の外観

 02 土蔵

 03 広い土間

 04 茶の間

 05 入口わきの風呂場 入口を入ってすぐわきにあり、夏はここで行水を使った。冬は簀子の上に風呂桶を置き、簀子から落ちる水で人糞や尿を薄めて畑の肥料にした。水を無駄に使わない工夫だが、ここまでするのは初めて知った。

 06 大黒柱

 07 2階から見る茶の間の空間

 08 削りかけ 「削りかけ」または「削り花」などと呼ぶ。小正月に「ニワトコ」の木などで作り、神棚を飾って豊作を祈る民俗行事。以前、東京の奥多摩や、檜原村でよく見かけて撮影している。ここでは「十二段バナ(六段バナ二本)神棚に飾る」と説明があった。

 09 漆器のお椀

 10 長持 坂本宿から次の宿場まで公用の書類を運んだ。

 11 上段の間 大名や公家がこの部屋で休息した。明治11年9月6日、明治天皇の北陸東海巡幸の際もこの部屋で休息をとった。部屋は当時のままに保存されている。

 12 床の間

 13 違い棚

 14 障子

 15 障子と紅葉

 16 板戸

 17 壁面


18-27 五料の茶屋本陣「お東」
東側が「お東」の建物で、見学は「お西」の入口から入る。天保11年と幕末の万延元年の絵図面が残っていて、これを参考に復元工事をした。県指定史跡。松井田町五料566。

 18 お東の外観

 19 格子窓

 20 柱と礎石

 21 茶の間

 22 上段の間

 23 井伊の赤備え 甲州の武田軍団の中で、赤い武具で統一した部隊は特に精強と評価が高かった。武田氏が滅んで徳川家は旧臣達を積極的に受け入れ、井伊直政は自らの軍団を赤備えで統一した。箕輪城を得てすぐに高崎城を築城して横川に関所を設けた直政は、関所を守る家臣らにも赤備えの鎧を支給したと伝えられる。

 24 障子と花

 25 板戸と障子

 26 板壁の年輪

 27 建物側面


28-33 安中藩郡奉行役宅
村方を支配した幕末の郡奉行、猪狩幾右衛門(いかりいくえもん)の役宅。長屋門を構えてはいるが、全体に質素な印象を受ける。市指定文化財。安中市安中3-6-9。

 28 外観 見た目には農家と変わらない。

 29 外観

 30 座敷

 31 享保雛 寄贈された雛人形。雛祭りの時は座敷一杯に雛を飾る。

 32 湯殿

 33 猪狩幾右衛門の画像


34-39 安中藩武家長屋
一般の藩士は長屋に住んだ。3軒長屋として残っていたのを4軒長屋に復元して公開、道路を挟んだ郡奉行役宅の真向かいにある。市指定文化財。安中市安中3-6-1。

 34 全景 江戸時代、前庭は畑だった。どの藩でも一般の武士は非番の時は畑仕事をし、倹約を美徳とする生活をしていた。

 35 座敷

 36 座敷

 37 梁と天井

 38 長屋の裏側 格子を横に付けた与力窓があつらえられている。

 39 側面


40-41 旧碓氷郡役所
明治21(1888)年に建てた西洋建築の役所が明治43(1890)年に火事で焼け、新たに翌年、和風建築で建てた。今は郡役所の歴史の展示とギャラリーに利用されている。市指定文化財。安中市安中3-21-51。

 40 外観

 41 外観


42-43 日本キリスト教団「安中教会」
旧碓氷郡役所の隣りにある。安中藩士の家庭に生まれ、キリスト教の布教に尽力した新島襄が設立に関わり、日本人が最初に建てた教会という。見学は3週間前までにあらかじめ予約が必要で、今回の写真は道路からの撮影。国登録有形文化財。安中市安中3-19-10。

 42 外観

 43 外観


44-45 新島襄両親の家
新島襄は天保14(1843)年、江戸の安中藩上屋敷で生まれた。幕末の元冶元(1865)年、国禁を破って函館から米国船に乗って出国、米国でキリスト教を学んだ。帰国後、京都に現在の同志社大学を設立したが、明治23(1890)年、療養で滞在した大磯で死去、46歳の若さだった。その新島の両親が住んだ家で、新島が実際に安中に滞在したのはわずか3週間ほどだった。市指定史跡。安中市安中1-7-30。

 44 座敷

 45 土間

この写真家の作品一覧へ   Web-ProPhoto.com トップページへ   ▲このページの先頭へ

Copyright © Satoshi Niwa and Web-ProPhoto.com 2015. All rights reserved.